司会 長らくお待たせしました。
ただいまより「シンポジウム小児医療を考える」をはじめます。
主催者の清水陽一よりごあいさつさせていただきます。
清水 こんにちは。新葛飾病院の院長をしております清水陽一です。
今日は連休のはざまにもかかわらず、心ある人がお集まり頂き、ありがとうございました。
今日の会は非常に素晴らしい会だと僕は思います。というのは、医療事故の被害者、小児救急医療を頑張っていってお亡くなりになった医師の奥さん、小児科学会の権威の先生、一同が会してのこのようなシンポジウムは、多分日本では初めてだと思います。
このようなことを私も担うことができて、大変な喜びを持っております。
昨年、私の病院に、今日ここで話していただく豊田さんを医療安全担当者としてお招きしました。私は元々NPO法人「患者のための医療ネット」の副代表ですので、豊田さんと2人で「患者のための医療ネット」葛飾支部を立ち上げて活動してきました。今回のような会を担うことができ、本当に幸せだと思います。
今日はお二人のすばらしい方に、コーディネーターをしていただきます。
右側にお座りなのが大熊由紀子さんです。(拍手)
由紀子さん、僕は「ゆきさん」と呼ばせていただいています。ゆきさんは、長い間朝日新聞の記者をされて、女性として初めての論説委員となり、医療、福祉の面で素晴らしい仕事をなさって、現在は国際医療福祉大学大学院の教授として、ますます御活躍なさっています。
左は和田ちひろさんです。(拍手)
和田ちひろさんは、「いいなステーション」の代表で、現在東大の先端研の特認助手をされています。彼女は、患者さんの安全、患者さんがいかにして良い入院生活をおくれるか、外来患者さんとして満足できるかをずーっと追求している方です。
お二人を引き合わせることで、今日はすばらしいコーディネートをしていただけると確信しています。では、お二人にバトンをわたし、この会を進めて行きたいと思います。
尚、中原先生の過労死の支援の会の名簿が回っています。よろしければ、ご署名をお願いします。最後までゆっくりお聞き下さい。(拍手)
大熊 御紹介いただきました大熊由紀子です。
普通、医療事故の被害者と小児科のお医者さんが一緒に台にのぼることはありません。
そのことについて、私の友人で東海大学の病院長になって8日後に患者さんの死亡事故のあった谷野隆三郎さんが、このように言っていました。
遺族の方たちは「殺された」と思っている。医者や看護師さんの側は事故だったと思っている。ここにとても深い溝がある。だからわかり合うのが難しい。そう言っていました。
この間の尼崎の列車事件を見ると、ご遺族たちは皆「殺された」と言っていました。JR西日本の人々は、殺したわけではない、と多分思っているでしょう。ですが、大きな仕組みの中で殺すことに加担していたのかもしれません。その大きな仕組みを今日は見つけていきたいと思っています。
では私はこれから下の方で、皆さんのご意見を伺う係になります。
和田 皆さん初めまして。和田ちひろと申します。座ったままで失礼します。これだけ広い会場に、三連休のまん中の日にお集まりいただき、座長として大変嬉しく思います。
皆さんご存じのマザーテレサが「愛の反対は何ですか?」と聞かれたときに、憎しみではなく、無関心である、という言葉を残しています。
小児救急は医療者が担うもので、私たち市民は受ける側だと思っていたのかもしれません。
でも今日ここに集まった皆さんは、関心を持って市民の立場から小児救急をどう考えていったらいいのか、その先導者となる方たちなのではないかと思っています。
今日は、由紀子さんは会場で皆さんの声を拾ってくださるとのことです。私は壇上で司会を務めさせていただきます。
まず、こちらにいらっしゃる3人の方をご紹介します。パワーポイントお願いします。
当時44歳だった小児科の中原利郎さん。激務のために不眠と欝病を患って、自らの命を絶ちました。1999年8月16日のことでした。
遺書には「少子化と経営効率のはざまで」というタイトルがつけられ、小児医療がいかに不採算部門であるか、いかに過酷な労働環境であるか、が記されていました。
今日は奥様の中原のり子さんにお越しいただいています。(拍手)
この写真は、佐藤頼ちゃんです。
2002年9月4日、岩手県一関市で、明日8か月を迎えようとしていた頼ちゃんが亡くなりました。40度近い熱と下痢、嘔吐のために地元の小児科医にかかっていましたが、発熱から2日目の夜に容態が悪化しました。4軒の救急指定病院に電話をしましたが、小児科医が当直しているところはなく、満足な治療を受けることなく頼ちゃんは亡くなりました。我が国の小児救急の態勢はどうなっているんでしょうか?
今日は頼ちゃんのお母さんの美佳さんにきていただいています。(拍手)
次ぎの写真は、豊田理貴ちゃんです。
2003年3月、小児救急を中心とする東部地域病院の夜間診療で、誤診や当直医から日勤の医師への引継のミスで、当時5歳だった理貴ちゃんが亡くなりました。病院には小児科医がいたにもかかわらず、入院後約8時間後に理貴ちゃんは亡くなっています。
小児救急の質の問題について、今日はお母さんの郁子さんにおこしいただいています。(拍手)
ご家族と一緒にドクターが壇上にあがるのは、すごく珍しいという話しがされていました。今日は中澤誠さん、今日は皆さん「先生」ではなく「さん」と呼ばせていただきます、
中澤誠さんは、東京女子医大教授の教授で小児の循環器、心臓の病気を専門にされています。日本小児科学会という約1万8千人の小児科医が加盟する団体の理事を務めておられ、その中でも小児救急プロジェクトの担当をされています。(拍手)
最後に、鈴木敦秋さんを御紹介します。
この3人の家族を取材し、それぞれ別のところに住んでいた3人の家族を、どうしても引き合わせたい、そして、中澤先生とこの3家族を会わせたら、小児救急が変わるのでは。そんな思いでこの4人の方を引き合わせ、キュービット役をつとめられました。最近『小児救急「悲しみの家族」の物語』という本を出されました。(拍手)
以上、5人の方、それぞれ立場も違い、多少思いも違います。でも今日はこの壇上に集まり、小児救急を考えて行きたいとのこと。日本でもかなり稀な会だと思っています。限られた2時間ですが、壇上の方の話プラス会場の方のお話しを聞いていきたいと思います。
私の目の前に鐘がおいてあります。ちょっとお話が長いかな、と思ったらチーンと鳴らしますので、次の方にお話を譲っていただけたら、と思います。
それでは、まず、中原のり子さんに、お話しを始めていただきたいと思います。生前のご主人のこと、小児医療に対する現在の思いについてお話し頂けたら、と思います。よろしくお願いします。
中原 故中原利郎の妻・のり子です。夫・利郎が元気でいれば今年50歳です。スポーツを愛し、とても快活な礼儀正しい人でした。
医学部5年生の時に知り合ったのですが、お酒が強くて、生真面目な、勉強も遊びも夢中になってしまうような、子供っぽいところもある人でした。とにかく子供が好きで、ずっと子供に関わる仕事をするのが夢だったと聞いていました。スポーツは特にサッカーが大好きで、Jリーグ発足前でも、子供にはプロのサッカー選手になりたい、と言わせるほどの、のめり込みようでした。
小児科医師としてどのような働きぶりであったかは、実は良く知りません。ただ、多くの患者様とご家族から、たくさんのお礼状などを頂いているようでした。
家では子供の腕を取って血管確保の練習をしたり、なんでうちの子は白血病や重い病気にならないのだろうか、有り難いことだ、と寝顔を見ながらつぶやいていたものです。
そんな、家族を愛し、サッカーを愛していた人の態度が、変わり始めました。
月に5〜6回あった当直明けには、憔悴し切った顔で、体を引きずるようにして帰宅し、家族に当たり散らすこともありました。特に当直が週に二度以上入ると、痛風の発作を繰り返し起こし、余程痛かったのでしょう、痛みのあるくるぶしにドライアイスを当てて、低温ヤケドを起こすこともあったほどです。
それでも仕事を休むことも無く、夢中で働き続けました。
私からの「もう辞めたら」という問いかけには「小児科医は、僕の天職だ」と言い、もう私が夫の行動をさえ切るような発言は出来なくなりました。
また、夫の職場の医師は女性が多くて、結婚・出産・育児、また家族の介護などが必要な主婦も多いため、夫がいつも誰よりも多く当直は入りましょう、と計画していたようです。
平成11年に6人居たスタッフが3人に減少した3月は、8回の当直がありました。ちょうど年度が変わる月なので、大学病院の先生に応援も頼めない事情があったようです。しかし、その3月の8回の当直から夫の様子が変わり始めました。もう家族に当り散らす元気も無くなり、家に戻るとぐったり体を横たえるだけでした。
5月になれば新しい先生が一人増えるからと、それだけを頼みの綱に力を振り絞っていたようです。でも、新しい先生が一人増えたからと言っても、特段仕事量が軽減された風はありません。心身の落ち込みは日増しに募っていく様子でした。
7月には、自分のことがフッと分からなくなるから、と言って車の運転も控えるようになりました。
8月には、自分から仕事を辞めたいと言い出しました。
私は大賛成して、さあ病院長と事務長に退職を切り出してくださいね、と約束して家を送り出したその10時間後に、彼は、病院の煙突の上から飛び降りてしまったのです。
「なんで、なんで、そんなことがあるわけが無い!」と混乱する中で、遺書の「少子化と経営効率のはざまで」を手にしたのです。
「ああ、夫はこの文章をきっと多くの方に読んでもらい、過酷な小児医療の現状を訴えたかったのだ。私が夫のメッセンジャーとして、この現状を伝えるのだ」と感じたのです。
まずは、労災申請して、夫は働きすぎで命を落としたことを、証明してもらおうと考えました。でも、労働基準監督署は決して働きすぎでは無い、という判断を下しました。特に当直は労働時間ではない、過酷な長時間勤務は無かった、という理由でした。
当時の勤務先の病院からは、労災申請は詐欺罪だ、と言われる始末で、もしかすると私の言い分は違っていたのかもしれない、とも思うようになりました。医者であれば、8回の当直は常識、もっと頑張っている医者もいるとか、医者のくせに自ら命を絶つのは許しがたき行動、心が特別弱かった、という仲間の声まで聞こえてきました。
それでも、こんな私の行動を支援する方々に巡り合い、全国から聞こえてくる小児科医の悲鳴が、やっぱり私のやっていることは間違っていないんだ、と確信に変えてくれたのです。
そんな時に佐藤さん・豊田さんを知りました。各マスコミの取材で必ずと言って良いほど中原の事例と佐藤さん・豊田さんがセットで扱われる様になったのです。
テレビは、私が3時間も今の現状を変えて頂きたいと話しても、映像ではボロボロと泣く取材の最後の数分だけを使われる事もありました。労災認定もされず、可愛そうな家族が泣きながら小児医療を改善してください、と訴え続けても、先は見えています。
でも、小児科学会が改革を推進する構想を企画した今だからこそ、まさに私たちに向きあって下さったのだと思うのです。
正直なことを言いますと、私は、難しい事は判らないのです。ただ、私達家族のような悲劇を二度と繰り返さないような小児医療のシステム、そして医師の労働環境を改善して頂きたいのです。
医者だけにはなってくれるな、と言い遺した父親の言葉に反し、ただただ輝いて働いていた父親の後姿を慕って、長女・智子が来年から小児科医として羽ばたこうとしています。
このシンポジウムを通して、私たちの心からの願いが達せられる日がくる事を、待ち遠しく思います。お忙しい中お越頂きました皆さまの温かいご支援があれば、きっと難しいことも達成されることでしょう。
今日は、私達三家族が初めて協力して作ったシンポジウムです。この会を開催するに当たって、役員の皆さまのたくさんのご配慮を頂きました。この場をお借りしてお礼申し上げます。また、この場にいらして、拙い私の話を聞いてくださいまして皆様、どうも有り難うございました。(拍手)
和田 中原さん、どうもありがとうございました。
つらかった経験を皆さんの前で話すのは、とても大変なことだと思います。家族の方は、泣いて泣いて泣き暮らして、それでも小児救急を何とかしたいと、立ち上がる姿は、みていて、決して強いわけではないと思うのですが、その中に希望を見いだして生きていらっしゃるというのは、すごいことだな、と、思います。すごいなと思って泣いているだけでは、私たちも、いけない。ではどうしたらよいのかを考えていきたいと思います。
先ほど、長女の智子さんが小児科医になる、というお話しでしたが、今日は一番前に座ってらっしゃいます。後ほど、抱負などをお話いただきたいと思います。
中原先生が亡くなったことをきいて、昔中原先生にかかった1歳になる前の赤ちゃん、その子を看取ったご両親がのり子さんに、メールをくださったそうです。
とても長いメールですべては紹介できませんが、その中で生前、その1歳になる前のお子さんを亡くされた両親にこんな言葉をかけていたそうです。
「人の命は、亡くなってからいかに社会のために役にたったかで決まるんですよ。あなたのお子さんは、病気を持って生まれたけれど、医学の進歩のために、たくさんの情報を提供してくれました。これから多くのこどもの命を救うために、あなたのお子さんはどれだけ大きな貢献をしてくれたでしょう。」
人が亡くなることはとても悲しく、特に小さいときになくなってしまうと、なんのために生まれきたのだろう、と思ってしまうのではないでしょうか。それが病気ではなく事故に遭われて亡くなる、というような場合は特につらいことだと思います。
次にお話しくださる佐藤さんをご紹介しようと思います。
亡くなった頼ちゃんの死を無駄にしないために、ひとつの思い出だけにしないために、社会の小児救急を変えるために、あんなに細い体で、社会のために一生懸命活動されています。それでは、美佳さん、事件が起こった当日のことから、お話しください。
佐藤 みなさま、本日はご来場頂き、ありがとうございます。
何からどう話せばよいのかとても悩みました。うまく伝えたいと思っても、ことばが浮かんで来なかったからです。
私の最愛の息子のことから話そうと思います。
頼は2002年1月5日寒い冬の日に、この世に生を受けました。少し小さく、でも元気な男の子でした。
生まれてからしばらくは、笑ってくれない息子でした。
なんとか笑わせようと必死でした。
サイレントベビーかと心配したくらいです。
はじめて笑わせるのに成功した時にはうれしくてしかたなかったのを覚えています。
2ヶ月を過ぎると休みの日は毎週のようにどこかへでかけました。
その時々の花を見、河原を散歩し・・・。
そんなあたりまえの頼のいた日々は・・・・・・・・・私にとって二度と戻らないしあわせな時間でした。
9月の最初の日曜日、それが一緒に青空の下で笑った最後の日になりました。
翌日未明から具合が悪くなった息子の症状は、嘔吐、高熱、下痢。
小児科医院では、流行っている風邪と診断されていました。
その診断はどこへ行っても変わりませんでした。
できることなら代わってあげたい、そんなことを思いながらも、特に変わった症状ではないらしいことにほっとしていました。
ところが、2日目の夜、容態がかわってしまったのです。
息子が嘔吐し、着替えさせようと起こした時のことでした。
お座りができるはずの頼の体がくにゃっと倒れかかったのです。
私はあわてて地元一関市の3つの救急指定病院と、隣りの水沢市の救急指定病院に次々に電話をかけました。
しかし小児科医がいない、電話に出ない、などの理由で診察してくれるところが見つかりませんでした。
ようやく受け入れてくれた病院の当直医は、眼科医でした。
やさしそうな若い医師でしたが、畑違いの小児を診察しなければいけない状況に戸惑っているのが見てとれました。
院外にいた小児科医に連絡を取ろうと何度も電話に向かいましたが、連絡がついた気配は一向にありませんでした。
病院にいる、ということに安心していた私も、10分、20分とたつに従い、少しずついいようのない不安と焦りがこみ上げてきました。
小児科医に連絡の取れない状況に、眼科医はブドウ糖を注入することに決めました。
普段なら小児の細い血管に注射することがないだろう眼科医は、小児病棟の看護師に応援を頼み、やっと頼の体には水分が入ることになりました。
到着から50分以上経っていました。
注射器の針が刺さった時でしょうか、処置室の前でまだかまだか、と待っていた私の耳にも小さな泣き声が聞こえてきました。
久しぶりに聞く肉声に思わず涙がこぼれ、胸をなで下ろす思いでした。
これで大丈夫、そう思いました。
ただ、点滴でなくてよいのかと、いう一抹の不安がわきました。
当直の眼科医にたずねると、体内に水分を入れること自体に熱を下げる効果がある、と教えてくれました。
なぜあのとき、どうしても点滴をと、食い下がれなかったのか、悔やんでも悔やみ切れません。
入院になると思うので準備をして朝一番に来てください、との言葉を背に帰宅しました。
家に戻ると10時を少し廻ったところでした。
私はどうしても頼をふとんに寝かせることができず、温かい頼の生きているぬくもりに寄り添うように、抱き続けていました。
けれど連日の徹夜で体は重く、気を抜けばすぐに睡魔に負けそうでした。
目は息子と時計を行ったり来たりで、毎秒毎分がとても長く感じられました。
時計の針が動くたびに、もうすぐだからね、がんばろうね、と息子にとも、自分自身にともなくつぶやいていました。
今思えば、あと4時間起きていたとしても、私は死ぬことはなかったのです。
なのにどうしても強い眠気に勝てず、3時になった時、夫に交代してもらい、倒れるように眠りました。
7時過ぎ、私は、「美佳、起きろ」という震えるような叫び声で飛び起きました。
そのとき私が目にしたのは・・・・息子の理解しがたい姿でした。
頭の中が真っ白になり、何を考えていいか、全くわかりませんでした。・・・・(嗚咽)
足元から崩れていくような恐怖の中で、どうして立っていられたのか・・
頼、生きてるんだよね。絶対生きてる。そう信じているのと同時に、まさか、いなくなるなんて嘘だよね? と、希望と絶望でごちゃまぜでした。
救急車が到着し、運びこまれるのを追って私も乗り込もうとしましたが、足がもつれ、なかなか上れず、何度もスネをぶつけました。
なぜかすぐに出発しない救急車の中で、何ができるかわからず、とにかく必死で頼の体をさすり続けました。
その間にも聞こえてくるのは、未だ搬送先が決まらないらしい隊員同士の絶望的な会話でした。
およそ経験したことのない怖さと、どこにぶつければいいのか分からない怒りの中で、ただ、私の前からいなくならないで、と、そのためなら何でもするから、と、祈ることしかできませんでした。
県立病院を経由し、最後となったのは、やはり前日受け入れてくれたあの病院でした。
救急隊員の後を引き継ぎ、心臓マッサージを始めた眼科医の目にはいつしか涙があふれていました。
それを見たとき私は「もうだめなのだ。頼はもう私に笑ってくれることはないのだ」と知りました。
ありがとうございます、と頭をさげながら、どこか現実ではないような気持ちでした。
何にありがとうなのかわからないまま、泣き崩れるしかありませんでした。
何日かしても、私はなぜここに頼がいないのか、わからないままでした。
「私が頼を助けられなかった」「私のせいで」・・・・けれども私は必死だった。できることは全部やったはずだった。なのになぜ、頼はここにいないのだろうか。
そんなことをずっと考えてもがいていました。
疑問は山のようにふくれあがり、ついに私は新聞社にメールを送ることを思いつきました。
取材を受け、そのたびに知る小児救急の厳しい現実。
今まで知らなかったことに愕然とし、何も改善されていないことにただ虚しさを感じました。
それから図書館や本屋で片っ端から資料を読み、体制に不備があるのでは、と思うようになりました。
救急指定病院でありながらも受け入れられない状況。動くはずの救急車、来るはずの小児科医、どれも当たり前のように機能していると疑わなかったのに。
もし、当直医が無理と感じたときに、他に受け入れ先を作っておいて搬送させるシステムがあれば、救急車が医療圏を超えて確実に専門医に診てもらえる病院に搬送するシステムがあれば・・そんな病院があったら。
もうこんなことがあってはいけない。息子のように喪われずに済む小さな命をなくしてはいけない。その一心で署名活動を始めました。
息子の死や署名活動の様子はメディアでも大きく取り上げられ、そのたびに全国からあふれんばかりの声が届きました。
ほとんどが、同じように子をもつ親の不満、不安、そして怒りでした。
ホームページを立ち上げると、今度は医療者側からの生の声も寄せられました。
親の態度への不満。小児科医の過酷な労働状況、このままでは小児救急はおろか、小児医療が破綻してしまう、という声。
双方の言い分の食い違い、そこには深い溝があるようにも思われました。
私は親ですし、子を持つ親の、何とかして欲しい、とにかく診て欲しい、というひたすらな気持ちは良くわかります。
そのような親の思いを、おかしいとも、悪いとも思えません。
自分より大事な子どもの様子がおかしければ、当然治してほしいと思うからです。
期待した分、病院、医師に不満が残ることもよくわかります。
けれど、一方が悪いと決めつける、それだけではいけないと思うようになりました。
確かに私は、頼を病院に奪われたと思っていました。正直に言えば、やはり今でも思っているのです。
でも私は・・・・知りました。
小児救急の闇、医療者側の苦悩。
もちろん苦悩しているからといって、それですべてが許容できる訳ではありません。
しかし、全ての子ども達のためにも、これからは共に歩んでいかねばならない問題だと思います。
良い医療を受けるためには、良い環境で医療者が働くことが絶対的に必要です。
そのために患者側に何が出来るのか、考えねばなりません。その時がきています。
小児救急をささえるのは、医療者だけではありません。私たち親の役目でもあるのです。
私たち親が、患者側が出来ることとは何でしょうか。私には、2つしか思い浮かびませんでした。
一つは小児医療の現状を知り、理解することです。
そして1つはお金を払うことです。
現在、ほとんどの自治体で小児に対する医療手当があるのは皆さんご存じかと思います。
この制度は、抵抗力が弱く何かと病気にかかりやすい子を持つ親にとって本当にありがたいものです。
けれど、夜、せめて時間外の診察だけでも実費にするというのはどうでしょうか?
親は我が子のためなら、本当にかかるのが必要だと判断すれば、「いくらでも」とまでは言えなくても、ある限りは出そうとするはずです。
そうすれば医師の悩みの1つでもある、昼間にかかれるのに空いているという理由だけで夜に来るという、コンビニ化と呼ばれる問題もいくらか改善できるのではないでしょうか。
もちろん判断がつかず高いから明日と思っていたら大事に至ってしまった、ということを防ぐために、電話相談などのケアは必要不可欠だと思っています。
いきなり私たちにできることはお金を払うことだけだと言われても、皆さんひいてしまうかもしれません。
私自身、何も知らなければ「何を言っているの」と思っただろうと思います。
けれど、もしこのままでは、近い将来どこに行っても小児科医に診てもらえなくなる、と聞いたらどうでしょう。本当にそれだけ事態は緊迫しているのです。
医療者も医療者として改善することはあるはずです。
親側と医療者側が歩み寄り、お互いがお互いの立場に立って考えることができた時、はじめて一歩前進するのです。
頼は苦しんだまま逝きました。たった7ヶ月、明日には8か月と言うときに、これからたくさんあったはずの、楽しい、嬉しい、を知らずに。
私は宝物を失いました。最愛の息子の成長をみることは、もうかないません。
もう二度とこんな思いを誰にもしてほしくはありません。
その思いがあるからがんばれます。
ですから皆さん、どうぞ考えてみてください。
子供たちの未来のために。
あってあたりまえの子どもといる幸せの時間のために。
どうぞ力を貸してください。
本当に今日はありがとうございました。(拍手)
和田 佐藤さんはこの経験を、これだけの多くの方の前で話すのは、今日が初めてだということで、最後までお話できるかしら、と心配して一生懸命徹夜で原稿を作っておられました。最後までお話を聞くことができてすごく良かったと思います。
頼ちゃんが亡くなって2年半しかたっていない。そのなかで、これだけ気持ちを整理して、泣いているだけではいけない、次の被害者をださないために自分にできることは何か?
そう考えて、美佳さんとご主人は2か月で約3万の署名を集めておられます。署名を厚労省に提出して、「小児救急を何とかしてください。私たちやこどものために、そして小児科医のためにも、小児救急の態勢を何とかしてください」と一生懸命訴えています。
でもそれだけの署名が集まったからと言って、小児救急がそんなに簡単にかわるか、と言えばそんなに簡単に変わらないのも事実です。
佐藤さんが一生懸命訴えていた小児救急の現状を知ってください、ということ。小児の問題だけではないのかもしれません。今日本の医療費、約30兆円です。それが多いのか少ないのか、ということ。私たち一般市民はいま一度考えてみる必要があるのではないか。そんな事を美佳さんはお伝えくださったのではないかと思います。
それでは次に、豊田さんにお願いします。
葛飾区は、一関に比べ、12分の1の土地に、約7倍の方が住んでいます。24時間小児科医が常駐している病院も、葛飾区には、あります。決して小児救急のシステムの問題だったとは考えていない、と豊田さんは話しておられます。むしろ小児医療の「質」の問題があったのではないか、といつも豊田さんはお話されています。今日はそのあたりも含め、当日のことを話して頂きたいと思います。よろしくお願いします。
豊田 皆さん初めまして。理貴の母で豊田郁子と申します。今日はよろしくお願いします。
ここに出ている写真は、亡くなる24時間前のものです。2番目の子なので、あまり写真を撮ってあげられなかったのですが、なぜか前日夕方に写真をとって、それが最後の一枚になって、いろいろな方たちに、理貴の姿をご紹介させて頂いています。
私の息子理貴は2003年3月7日、金曜の夜から父親の実家に、姉と初めてのお泊りに行きました。9日の明け方3時30分頃、主人の実家から、理貴が「お腹が痛い」と泣き叫んでいると電話があり、その日のうちに東部地域病院に2度受診しましたが、腹痛を訴えてから約12時間後、病室で亡くなりました。
東部地域病院は東京の東部5区の中核病院で、1990年の開設以来、小児科を中心とする救急外来の充実をうたっていました。
未明に激しい腹痛を訴えて救急外来にかかった理貴を診た救急外来の当直看護師が危機感を感じ、当直医に外科のコンサルトや大学病院への転科などを勧めたにもかかわらず、当直医はそれを無視し、緊急性がないと判断したことでその後引き継がれていった救急外来の日勤看護師、病棟の日勤看護師へと代わっていく間に経過観察が緩慢になっていき、息子は病状の悪化を誰にも気付いてもらえることなく・・・・大量吐血、ショック死しました。
医師だけでなく、看護師の申し送りや経過観察においても問題があり、チーム医療がなされていませんでした。
息子の事件が報道されることになったきっかけは、新聞社数社に届いた内部告発文書でしたが、私は当初、そうなることを望んだ訳でも、騒ぎ立てたかった訳でもありません。
告発文書の中には、息子が受診した時の様子、そして患者の知らない内部でのやりとりが克明に記載されていました。
病院側は当初「診療には最善を尽くした」としていましたが、内部告発によってずさんな診療体制が発覚しました。
葛飾区内には、小児科医が24時間常駐している慈恵医大青戸病院があるほか、葛飾区医師会も午後10時まで2ヶ所の夜間救急診療所が子どもを診てくれているので、頼ちゃんがいた一関市に比べれば恵まれた自治体なのかも知れません。
ですが、「小児科がある救急病院なら安心だ」というふうに手放しで喜べない現状があり、医療の問題には「質」が大きくかかわることを多くの方に知っていただきたいと思います。
理貴を診察した当直医は、モラルが欠けていました。
本来、救急外来を担当する医師は、患者の恐怖感、家族の不安をよく理解し、思いやりの態度で接しなければなりません。医師に倫理観は必要不可欠ですが、この医師は怠慢としかいいようのない患者への対応でした。モラルだけでなく、他科の医師やスタッフとの協力的医療、そして、自らの判断能力においても欠けていました。
小さい頃病弱だったその医師は、自分と同じような子どもたちを救いたいと願い、小児科医になったといいますが、いつどこからその思いが消えてしまったのでしょうか。
息子を亡くしてしばらくの間、私は精神安定剤や睡眠薬を常用しながら、そうしないと生活ができない状態でした。勤務先や医療従事者の友人に支えていただけたことと、活動している医療被害者ご遺族との出会いにより、「同じ悲劇を繰り返さないように、何か医療を変える活動をしていきたい」と考えられるようになりました。
そして、一人でも多くの心ある優秀なお医者さんが育ってほしいと願いはじめた昨年の4月、静岡県浜松市にある浜松医科大学で「医療被害者が語る」という講演会に招いていただき、医学科100名、看護科70名の学生さんの前でお話しする機会を得ることができました。
浜松に向かう当日、私は1人新幹線の中で、学生さんが1年次生だということを思い出し、急に不安になりました。4月に入学してまだ3週間の学生さんは、どんな気持ちで私の話しを聞くのだろう。患者の家族の立場なのか、一般の若者の感覚なのか、それともすでに医療者として聞くのだろうか。彼らに私の想いは本当に伝わるのだろうか。
いつも学生さんにお話しする時は、こんな言葉を伝えています。
「日頃医療に貢献されて、頑張っている方達がシステム上の問題から加害者になってしまうとしたら、こんなに悲しいことはありません。防げるものなら、被害者も加害者も増やしてはいけない。
子供を亡くした悲しみを何かで表現することはできませんし、どんなに泣き叫んでも理貴は帰ってきません。もう誰にも、こんな思いはして欲しくない、私の心の中は毎日その思いでいっぱいです。
皆さんの中で小児科医を志望している方はどれくらいいるのでしょうか? 小児科は報酬が少ないし、こんなことがあってはやっぱり怖い!と思ってしまいますか?
医療が良くなることを願って被害者家族が活動しようとすると「医者が萎縮するのであまり騒がないでほしい」という声も聞こえてきたりしますが、誰でも一生のうちで病院にお世話にならない人はいませんから、私たちだってお医者さんが少なくなって嬉しいはずはありません。
事故を起こしてしまった多くの病院が、被害者にきちんと謝罪しなかった為に、そこから大きな溝ができ、このような誤解を生んでしまったのでしょう。
私自身は医師ほど素晴らしい職業は他にはないと思っています。それはこの世の中で一番大切なものは「命」だからです。その命を救えるのは最終的にはお医者さん、医療従事者だけです。
以前、こんな話しを聞いたことがあります。赤ちゃんは、自分一人で生きていくことができないから、大人から守ってあげたいと、と思われるように、「赤ちゃん」という可愛い姿で生まれてくるんだよ、という話しです。
子どもは自己判断ができません。うまく伝えられない時もあります。だから、子どもの心の声を聞いてほしい。小さな命を救えるのは、子どもたちの心の声を聞こうとする医師だけです。皆さんの中から、一人でも多くの心ある小児科医が誕生してくれることを理貴と一緒に願っています」。
浜松医大でもこのようなお話しをさせていただき、質疑応答に入りましたが、学生さんは緊張していたらしく、なかなか質問が出ませんでした。
ところが、一人が勇気を出して手を挙げ始めると、次から次へとたくさん手が挙がり、その後は止まらなくなりました。彼らの純粋で真剣な質問内容には大変驚き感動しました。
今まで、さまざまな会に参加していると、医療関係者の方からも「医学教育、学生の時点からの問題が多い。このままでは、医療界に未来はない」と言うような発言を何度となく聞いていたので、悲観的になっていた面がありましたが、少なくともあの日あの場で真剣に聴いてくれた学生さん170名は未来ある学生さんだと思いました。
学生さん、皆さんからの声は「医療者になる前に貴重なお話しが聴けて良かった」というものばかりで、医療者になる前の倫理面での授業、心の授業を強く望んでいる学生さんが多くいることを知り、こういう機会が全国に広まっていってほしいと思いました。
今年も浜松医大の講演会にお招きいただいているので、1週間後、一緒に活動している永井さんと一緒に伺う予定です。
これまでの活動の中で、新葛飾病院・清水院長との出会いがあり、現在私は、新葛飾病院に医療安全担当者として勤務しています。
母として息子を守ってあげることができませんでしたが、こうしていることで、あの子と共に生きていかれるような気がしています。
私は息子に起きた医療過誤を、医師の過労や人手不足から起きたものとは思っていません。ですが、その一方で、スタッフの過労や人手不足が事故を誘発させてしまう可能性があることも感じ、心を痛めています。
理貴を失って、活動していく中で、今日のこの「小児医療を考える」シンポジウムを、共催することになった中原さん、佐藤さんと出会い、そして、医療被害者の母である私が、病院で医療安全を担当し、それぞれの立場と状況を知ることにより、医療従事者の安全を確保することも始めなければ、患者さんの安全にまでつながっていかないことを痛感しています。
医師の心と身体が健康でいられなければ、患者さんに対する思いやりは自然と欠けていってしまいます。
現状の医療に、患者も医療者もたくさん不安を感じていると思います。患者も医療者も変わるべき時が来ているのではないでしょうか。
すべての人々が共に歩み寄り、相互理解と協力関係を成り立たたせることが可能にならない限り、今後も医療は変わらないし、変われないのではないでしょうか。
どうか、未来ある子どもたちを救うため、「救える命を確実に救う体制」づくりを実現させていきたいと思っています。皆さまのご協力と応援をお願いいたします。ありがとうございました。(拍手)
和田 豊田さんの話の中で、「命を救えるのは医師だけ」という話がありました。
それでも救えなかった命がある。それは一人の医師の資質もあるかもしれませんが、それがもしシステムの問題であるとするなら、医療者もまた被害者なのかもしれません。
小児救急の充実、私たち子をもつ親は皆、考えています。でもそれだけを叫んでいては小児救急の充実はあり得ないと思います。
中原医師が一生懸命やっていらした、それでも救えないこどもの命がある。システムの欠陥、小児科医が少ないという問題、あまりに小児科医の労働環境が劣悪であるという問題。
だから今小児救急の充実が叫ばれているのにできていない。そのあたりを、3人のご家族にお話いただきました。
中澤さんと鈴木さんのお話を聞く前に、少し会場からご意見を伺いたいと思います。
大熊 ちょっと手を挙げていただきます。医療従事者の方はどのくらい?ずいぶん沢山来てくださっていますね。ありがとうございます。
患者の側でとくに、被害にあったと考えている方はどのくらい? はい、ありがとうございます。
これから医療事故にあうかもしれないと心配でこられた方? はい、ありがとうございます。
今日は前に、パソコン要約筆記の皆さんに来ていただいています。医師と患者との言葉が通じにくいように、耳が聞こえにくい方と、そうでない人との会話が通じにくいことがあります。それで今日は4人の方でリレーしながら、パソコン要約筆記をしてくださっています。
そのお一人仁科さんは、小さいとき腸閉塞になったんですって?
仁科 典子 10歳の時に腸閉塞を患いました。私の場合、普通に医療を受けることができ、治療が始まったときから、その痛みから安心という形で解放されました。でも一晩我慢して、自分で歩くこともやっとの痛みでした。
理貴ちゃんは、痛みから解放されることなく、痛みを訴えることも我慢して亡くなったということで、何ともいえない気持ちでいます。
でも今日はこうして、違う立場の3家族が集まり、このような会を設けていることに希望を感じますし、積極的にこれからも支援していきたいと思います。(拍手)
大熊 鈴木敦秋さんの著書『小児救急「悲しみの家族たち」の物語』の中に、あることがきっかけで豊田郁子さんが変身されるくだりがあります。それは、平塚市の医療事故被害者、菅俣弘道さん・文子さんご夫妻が被害にあった東海大病院の講堂でお話をされた、それに同行したことです。その菅俣さんがここに来て下さっていますので、少しお話を伺いたいと思います。恐縮ですが2〜3分で話してください。
菅俣 弘道 2000年の4月にうちの一人娘は内服薬を点滴薬に誤注入され、単純なミスで殺されました。この「殺される」というのはどこの会場でも、特に大学病院や病院で講演を頼まれた時には必ず言う言葉です。
医療者にとっては、医療事故で亡くなった命を落とされた、という感覚でしょうが、被害者にとってはいつまでたっても「殺された」ことに間違いありません。この感覚の違いをちゃんと理解して、医療安全に取り組んでいただきたい、と思います。
今日のお話しの中で、佐藤さんが話された患者の自費負担について、私も同じような意見を持っています。うちの子のことで、安全基準規格という日本の統一規格ができました。しかしコストが他の医療器具に対し少し高いために未だに普及率が悪いようです。
安全にはお金がかかる。そのことを医療消費者である私たちも理解すべきだと思うんです。安全にかかる分のお金を払わないといけないんです。
医療はタダで受けるものだなんていう感覚は、捨てなければいけない。安全は買わなければいけない時代が来ているのだと、理解してもらうべきだと思う。これは私の意見です。
それから豊田さんの話しにあった医療の質ですが、私の娘が入院していた東海大学医学部小児科も、同じようなものでした。挿管ひとつとっても、できる医師とそうでない人がいました。外出するときも、その日の当直の先生を考えました。底上げをすることが必要だと思います。
大学病院の医学部の学生さんに話をしにいったときに、「殺される」という感覚の話と一緒に「自分の家族の治療をするとしたら」という感覚を、と話します。4年生ですが、「忘れていた」「気持ちを新たにできた」という意見を多くの学生さんから聞きます。
そういう感覚が鈍ることが、事故や作業的な医療の原因になっているのではないのか。そのあたりを医療消費者である私たちは、いつも見ていないといけないと考えています。(拍手)
大熊 どうもありがとうございました。岩田郁美さんはいらっしゃいますか?岩田さんもお子さんを亡くされたんですね。
岩田 郁美 私の息子は99年3月にインフルエンザ脳症でなくなりました。
そのときまで、救急車を呼べばすぐに運んで診てもらえるものと勘違いしていました。様子がおかしくなって救急車を呼びましたが、救急車はうちのマンションの下でとまったまま動けませんでした。救急隊の方があちこちに電話しても「受け入れられません」とのことです。何が起こっているか私はわからなかった。
救急車を呼べばすぐに搬送してもらい、すぐに手厚い看病をしてもえると勘違いしていました。まったく親になる準備ができていなかった、と気がついてショックを受けました。
息子の場合は高熱が出てから6時間ちょっとで、すぐに命を落としましたので、すぐに運んで手厚い治療を受けていても救命できたかどうか、わかりません。しかし、もし救命できるような場合であっても、この態勢では助けることはできない。
豊田さんから質の問題がでましたが、いかに量的な充実があっても、空白の時間が埋まっても、質の空白があっては意味がありません。医療関係者も治療法、態勢の作り方など、情報を共有し合っていいものを作っていく努力が必要だと思います。
大人も小児科が追い込まれている状況はうすうす感じられているとは思いますが、ここまで追い込まれるまで親の方に情報が来ていなかった。医療関係者の方々の思いと、私たちと思いとが、どこかで分断されていたような気がします。
医療被害者と医療関係者、一緒に手を取り合って、効果的にお金を遣い、日本のこどもたちの未来を救えるようにしていきたいと思います。おとな全体が協力しあい、小児医療を充実させ、安心して子育てができる社会にしていきたいと思います。私も勉強を続けながら、協力していきたいと思います。みなさんのご支援もよろしくお願いします。(拍手)
大熊 インフルエンザ脳症は本当にあっという間のことで、脳がお子さんの場合は1.5倍くらいに膨らんでしまうんですね。そのように命を落とされたお子さんの親の方々が会を設立されています。本を読みますと、お子さまを亡くされたことでおかあさんが取り乱し、兄弟にもついついあたってしまい、兄弟にも影響がでて、そこからなかなか抜け出せない、というようなことも書かれています。
被害者でもなく、医療者でもなく、ふつうのサラリーマンとして今日参加されているかたのお話もうかがいたいと思います。
藤塚 主夫 私は会社員です。働く者として中原さんのことがどうしても気になります。
我々の世界ではたとえば月40時間以上残業してはいけないとか、労働関係の法規できまっています。それを会社側だけでなく、我々働くものもそれを意識して働いています。以前にサービス残業なども問題になっていたが、だいぶ改善して、この5年くらいでだいぶ意識が変わっています。
ところが先ほどの話では、週2回、ひどい時は月8回の当直などという話しを伺うと、医療の世界では、我々の世界と意識がだいぶちがうのかな、という気がします。みなさんおっしゃっているように、解決のためにはお互いを責め合っているのでは仕方がないので、こういう機会を通じて意識を合わせ、前に向かって行くことが必要でしょう。日本の将来の問題として「少子化」が問題だとすれば、こどもを産んで育てやすくするということは、我々の使命なのかな、と思っています。(拍手)
大熊 看護師さんは3交替4交替があって回っていきます。しかしお医者の場合の当直は、朝から普通に働き、夜中も働いて、翌日また働きますので、32時間ぶっ通しで働くという他の世の中ではあり得ないようなことが、当たり前に起きています。
そんなこと普通だと思っていた、というお医者さんにさっきお会いしました、天野さん、どこかにおられますか?
天野 教之 今私は開業していますが、勤務医時代の経験では、月10回くらいの当直は当たり前でした。中原さんのニュースを聞いたとき、月8回の当直って不思議でも何でもないと思ったんです。月の時間外労働時間100時間を超えることはあたりまえで、200時間近くになることもしょっちゅうでした。
何が支えていたかというと、聖職者意識というか、使命感で無理してがんばっていたところがあると思う。それがいいことだったのかどうなのか、改めて考えさせられます。中原さんの事例を通してみても、患者さんのためにも実は良いことではなかったのではないか、と今は感じます。
先ほど御紹介のあった鈴木さんの本を、先日読ませていただきました。非常にびっくりしました。いちばんびっくりしたのは、中澤さんのくだりに「親が救急、緊急と感じたものは、すべて救急である」ということが書いてあるんですね。
私、開業して5,6年の間は、診療所に電話がかかってくると総て自宅に転送していました。24時間いつでも連絡が取れるようにしていたんです。しかし、考えられないような電話が夜中にかかってくるんですね。そのために非常に疲労する。疲れ果てて、電話の転送をやめてしまった。小児救急の問題というのは、実は小児救急ではなく、時間外診療だろう、と。親ごさんのワガママによる時間外診療にすぎない、のではないか、という意識を持っていました。
そこを、中澤さんの文章をよみ、ちょっと待てよ、と考え直して、やはり親が緊急と感じたら、親が不安に思っているなら、小児科では救急なのかなと思い直した次第です。
先ほど豊田さんが、患者の恐怖感、家族の不安を良く理解して、ということを言われたのが、胸にグサリと刺さりました。やはり、患者や家族の恐怖感を少しないがしろにしていたのでは、と反省しているところです。(拍手)
大熊 天野さんは非常に早くから「カルテを開示して」といわれなくても、どうぞ、とプリントアウトして渡していた非常に進んだ、患者さん思いのお医者さんです。そのようなお医者さんが、親ごさんのワガママによる時間外診療にすぎない、のではないか、と思い込んでおられたのです。
では、会場からはこれくらいで、また中澤さんのお話に戻したいと思います。
和田 小児科はコンビニではないのだ、ということを小児科の先生はよくおっしゃいます。でも今、天野さんがおっしゃったように、救急であるかどうかは、診察を受けた後の結果であって、親にとっては救急と思ったときが救急なんだから、診てほしい、という気持ちもあろうかと思います。
1万8千人ほどの小児科医が加盟している小児科学会の理事でいらっしゃる中澤さんは、小児救急の問題、小児科医の労働環境の問題について積極的に活動をしています。中澤さんがこの3家族と一緒になるのは、決して今日が初めてではなくて、今日が実は3回目です。3家族に会って感じたことや、今後の小児救急のあり方について話していただきます。
中澤 本日は、こんなにたくさんお集まり頂き、本当にありがとうございます。
私はいまご紹介のように日本小児科学会の理事ですが一医師として、一小児科医として参加しているというように、理解して頂きたいと思います。学会の中でこのような行動をするのは、多少の異端児と言うことでありまして。
日中間や日韓間で首相の靖国参拝が問題になります。この時に公人か私人かと問題になります。歴代の首相はあいまいな立場をとっていますが、この場合の私もそのような意味で多少あいまいな立場をとらせていただきます。
僕が首相なら、小児医療は明日から絶対に変わります。ですが、残念ながら私は首相ではないので…。そのあたりをお含み置きください。
ご家族とお会いした時の話の前に、どうしてそうなったかを話ししたいと思います。
小児科学会の理事に3年前に就任しました。その時に小児救急の問題は大変大きな社会問題である、と言うことで、その担当を仰せつかりました。
学会というのは、皆さんおそらくあまり馴染みがなくて、多分ある宗教団体の学会の方が有名でしょう。日本小児科学会なんて、おそらく今日初めての方もおられると思います。いつもは私たち医師だけがあつまり、学問的な討論だけをする会です。学問をとおして社会に貢献する役割はあります。これまでは、行動が全くなされていなかったと私は見ておりました。そのなかで、この担当になったのは、ある意味私にとって、学会だけでなく、社会に何か働きかけをする、貢献することができるかを考えたとき、この役は素晴らしい仕事であるわけです。そのなかで色々な事を調べて参りました。
小児科医の過酷な労働。私は還暦を過ぎました。還暦を過ぎてもまだ週に20時間時間外に働いている小児科医はたくさんいます。現に日本小児科学会が最近調べたデータでも、50歳までは週に20時間あるいはそれ以上というのは、平均的なんです。ということは、半分くらいはそれ以上働いている、とご理解いただくのが正しいかと思います。
中原先生の奥さんが言われたように、それを当直と呼んでいます。労働基準法で言っている当直は、そういうものではないのです。私たちは夜間働いています。夜間労働をやっていて、しかも小児科医の90%は翌日もフルに働いているわけです。先ほどゆきさんが御紹介いただきましたが、翌日も8時間では帰れませんので、32時間労働というのはむしろ短くて、36時間労働と私たちは呼んでいます。それが週2回、3回あります。調べてみますと、一ヶ月で休日がフルに丸1日休めるのは、若い先生は0かせいぜい1日。私自身も月2日しか休めません。非常に過酷な労働になっています。
ある調査で、これは鈴木さんの著書にも紹介されていますが、勤務小児科医が、自分のお子さんに小児科医になることを勧めるか、という質問に、勧めると答えた人はゼロなんです。小児科医は、過酷な労働のゆえに、自己再生能力をなくしつつある。自分たちの子供に小児科医として働けと言えない。かろうじて智子さんのような方が、オヤジの、あるいはおふくろさんの背中をみて、素晴らしい使命感で小児科医になろうとしている。その中で、小児科学会として、何かシステムをかえないといけないと、必死で考えてきました。
私たちはうすうすと感じていることの1つが、医者だけではできない、医療側だけではできない。これは患者さん、あるいは国民の皆さんを巻き込んでいかないと決して動かない。
医者が厚労省へ行くと、あるいは医師会に行くと、お前らはもう少し金がほしいからやるのでは、というような言い方をされます。病院の小児科は大赤字でつぶれているところがたくさんあります。「お前らは給料がほしいからそんなことを言うのだろう」とつっぱねられているわけです。国民が声をあげて、私たちと一緒に歩んでくれたらなぁ、という思いがありました。
そんな中で、鈴木さんと話していて、実はご家族が集まっているので会わないか、と言われました。
私は、一瞬、いや二瞬も三瞬もですが、たじろぎました。被害者の方・・先ほどの言葉で言うと、「殺した医療者の側」が「殺された患者さん」と一堂に会することは、不安と、・・なんといいましょうか、言いしれぬ心の不安定感がありました。
読売新聞で、7月のすごく暑い日でしたが、迷子になって電話をするまで、心拍数は、いつもの3倍くらい、ちょっと大げさですが、ドキドキしていました。そこでご家族とお会いしたわけです。
3家族の共通した認識は、今の医療を変えたい、と。私どもも今の医療を変えたい。そういうことで一致したということです。そこさえ一致すれば前に進めるだろうと。
鈴木さんにそのことを伺っていましたので、参加してお会いする決意をしたわけです。
中原さんの奥さんにも初めてお会いしました。「子供に優しい小児科医」はたくさんいます。いや、ほとんどがそうだと思います。自分の時間を病気の子どもに奉仕する、そのことが使命であり、喜びである小児科医。システムの問題、制度の問題点を知りながら、子供たちの医療のために、そういうことを考え、行動する時間がないんです。そして、自分もだんだん、追い込まれていく。そのことを考える時間すらない。時にどこかに逃げたい。私自身もそういう風に思ったことがあります。「自分の使命とは何か?」といわれると、それは小児科医である、ということですから、逃げることもできない。
私の職場は中原先生と違い、医師の数が少し多いですから、その分がかなり助けになっていることもあります。そういう意味で、中原先生と同じ事が今日また起こっても、なんら不思議ではない。どうにかしないといけないと思いました。
佐藤頼ちゃんのお父さんお母さんのお話もうかがいました。とてもとても悲しい話しです。
私も岩手県とご縁があるものですから、人ごとには思えません。
当時の新聞では、たらい回しとか、医療機関や医師の欠陥という指摘がずっとなされてきました。しかしこの時の論調は少しニュアンスが変わってきていたと思います。医療のシステムの問題、というとらえ方です。
佐藤さんのご両親の話をうかがいして、私はこのように理解しています。いつも小児科の専門の医師に診てもらえるなら、少し遠くてもいい、少し余計にお金をかかってもいいよ、と。これは私たちからは言えなかった言葉でした。患者さんの側から言っていただければ、私たちは非常に強く行動することができると思います。
コンビニ化といわれて、24時間、365日、街角にいつも小児科の良い医師がいる、という国民の感覚がある、と私は思います。ですがいつもそういう状況ではあり得ないのです。
佐藤さんの口からそういう言葉がでてきて、大変力強く思いました。
「だいじょうぶ?! こどものお医者さん」と、このシンポジウムの副題があります。この「だいじょうぶ?」ということを、豊田さんは医療を受ける側からおっしゃったと思います。
鉄道事故の話でもありましたが、すべての専門職に与えられた、自己研鑽、生涯教育という課題を指摘されたと思います。救急の立場で考えますと、チーム医療を円滑に動かすことができるとか、心身が100%健全であることが必要であろう。そして若い人たちへの充分な教育のできる、余裕のある体制でないといけないだろう、と、私たち救急担当としては考えているわけです。
このようなことを3家族と話しをし、また、分析を続けてきたことで、小児科学会では、24時間365日、質の高い小児科医療を提供することが使命である、ということを再確認したわけです。そのためには小児科医が少ない。そのために、後ほど鈴木さんから私たちの構想について具体的な話しが少しあると思いますが、入院と救急は集約しよう、身近な医療、ちょっと風邪をひいたとか、育児相談、予防接種などはそれぞれ継続しようと。そういうことで、地域小児科医療センター構想を提案しています。
この場合、集約化ということは、患者さんの側からすれば、受診する距離が長くなってしまう可能性がある。ですから共に話しあって、医療従事者だけでなく、みなさまの協力が絶対に必要だろうと思います。患者さん側の理解、ということだと思います。
皆さま方、今お子さんを育てておられる方は、小児救急小児医療はとても身近な問題、大切な問題でしょう。選挙があったら、そのために一票を投じられるかもしれません。ところが、子育てを終わった方は残念ながら昔の話しとして忘れてしまう。皆さん、ぜひぜひ、お孫さんがおられたり、その医療のために政治を動かしたりシステムをかえることは、なにも若いお母さんお父さんたちだけのことではありません。経験された方々すべてが協力できると思います。ぜひ悲しみを乗り越えて、こういう会を企画して頂いた方、システムを少しでも良い方向へ動かそう、という動きを、ぜひぜひ支えて頂きたいと思います。
ちょっと口幅ったい言い方になりましたが、これで私の話を終わりにさせていただきます。(拍手)
和田 中澤さんは先ほど異端児とご自分を呼ばれていましたが、きっとここにきていらっしゃる医療者の方、今後医療者になられる方の中にも、中澤さんのような方が、きっといらっしゃると思います。そういった方々の御意見もうかがいたいと思います。ゆきさん、会場の方々のご意見をお願いします。
大熊 先ほどからお医者さん、お医者さん、といっていますが、小児医療は、お医者さんだけがささえているものではありません。看護師さんで小児医療の安全の問題に関わっていらっしゃる尾花さんはいらっしゃいますか?
尾花 由美子 はじめまして。神奈川県立こども医療センターで医療安全管理者専任として昨年から働き始めました。豊田さんとは毎月の研修セミナーの講師としてお招きしまして知り合いました。
今日は、きいていて、大変胸が痛くなる思いですが、豊田さんの話の中で、事実が内部告発で出てきた、ということがありました。病院の実状がきちんと公にできないシステムには問題があると思い、いろいろな働きかけをしております。
当院はこども専門病院で、普通の総合病院の小児科よりは恵まれていますが、厳しい現状は同じです。お子さまやご家族に、適切で安心できる医療を提供するためには、働く側が、安心して働ける環境を作ることが非常に大きいと思っておりますので、そういうことに取り組むことが、私の役割として大きいと思っています。
医療安全推進室をつくり、副院長を室長として動いています。どこかのセクションで話しているのではなくて、関係者、つまり、医師、看護師、家族、検査技師といった人たちがひとつのテーブルで話しをすることが大切だと思っております。(拍手)
大熊 この活動には、康井副院長がバックアップされているからではないかと思いますがひと言如何でしょうか。
康井 制洋 今、尾花が話しました、同じ病院の医療安全推進室を任されている、康井です。小児医療の問題は、日本の医療システムの悪いところの縮図だと思っております。小児の問題だけでは実はなく、いちばん弱い小児のシステムに、ひずみがいちばん早く出た、ということだ思っています。医師、看護師、他のシステムを動かすものが、すべて疲労、疲弊しているのが事実です。利用者のみなさま、私たち医療者も、こういう会で問題点を他人事とせず、ひとつひとつ直面していく意欲を持っていかなくてはいけないと思っています。(拍手)
大熊 宇佐見ドクターはいますか? たまたま、東部地域病院、豊田理貴ちゃんの亡くなった小児科部長さんと学校では同級だったとのことですね。ご感想があればお聴かせください。
宇佐見 等 静岡から参りました。小児科勤務医です。今日は中原さん、佐藤さん、豊田さんのお話を聞いて、3人の方のエネルギーと能力に大変感動しました。ありがとうございました。
中澤先生、クセでどうしても先生とよんでしまうのです、勘弁してください。先生にお願いがあります。先生が理事のうちに、小児科学会で一度こういう会を開いていただきたいと思います。
医師の総合研修が始まり、私の病院でもあと2週間ほどしますと、研修医が小児科にまわってきます。私がその時教えなければと思ったのは、豊田さんの意見とはちょっと違うのですが、モラルではない、と思います。当たり前の人間が当たり前の教育を受けて、そこそこの休みを取って、この程度のことは絶対にできなくてはいけない、という最低限の知識をまずきちんと教えなければならない。その後にモラルがくると思う。絶対してはいけないエラーをなるたけ教え込む。そのことをどうやってやろうか、それができるかどうか、ちょっと自信はありませんが、医療は普通の人が普通に習えば、そこそこの人が学べば、ここまではできるぞ、ということを確保することが、モラルよりも重要なんじゃないか、というのが私の印象です(拍手)
大熊 ありがとうございました。重要なご指摘をいただきました。
では次に岩岡さん、中原さんと同じ千葉大のご出身です。
岩岡 秀明 船橋市立医療センター内科の岩岡と申します。中原先生とは大学の同級生でしたので、支援しています。
中澤先生がお話になった地域の小児医療センターについては、賛成です。実現させるためには、皆さん市民・国民の努力が大事だと思います。具体的には、国、市町村だけでなく、民間の病院も含めた横断的な協力と、ある程度お金をつぎこんで「こどもは国の宝」という意識でやっていかねばならないと思っています。
たとえば当院では、内科医で現在48歳の私は月3回の当直ですが、当院の小児科医は5人しかおりませんので、月に5回から6回当直をやっています。このような状況を改善するためには、横断的な小児医療システムの構築、そして、小児科学会の構想とは少し違うかもしれませんが、地域の救命救急センターの救急医や内科医の一部も、1次救急の部分で活用して小児医療を一緒に担っていく、そういうことも必要だと思いますし、そのためには、私も微力ながらご協力したいと思います。(拍手)
大熊 患者さんと医療者との垣根がはずれたと思いましたら、今度は小児科医と内科医の垣根もとりはらおうというご提案でした。では、また壇上に戻します。
和田 小児救急はなにも最近始まったことではないということは皆さんご存じだと思います。「小児救急シのステムをつくらないといけない、いけない」と言われて、でもできていない、というのが現在の問題です。当直の回数の問題がでていますが、小児科医が少ないという問題、そして小児科医に占める女性の割合は半分くらい、これからは7割になるだろうとも言われています。女医さんが無理をせず、出産をし、子育てを、ということができる環境を作りながら、私たち医療を受ける側も安心して小児救急の恩恵を受けられるためには、3家族が機関車の頭のようになって一生懸命走ってくださっていて、それに対して私たちに何ができるかを考えないといけないと思います。
そのためには、医療費の負担をもう少しあげてください、と国民の側から言えたら素晴らしいことなのかもしれません。中澤さんがおっしゃるように、小児科医、小児科学会として医療費を上げた方がいい、というのは言いづらいのかもしれません。私たちが考えていく第一歩になればいいなと思います。
最後ですが、鈴木さんからお話していただきます。
3人の家族をそれぞれ取材した後に、この3人の家族が会う必要があるのではないか、と鈴木さんは思われました。そして、その3家族プラス中澤さんが出会うことによって、小児救急は何かがかわるのではないか、と鈴木さんは考えられて、さきほどお話にあった暑い夏の日に讀賣新聞で、このお3人と中原さんの娘さんの智子さん、そして佐藤さんのご主人が、お会いになっています。
鈴木さんはどんなことを期待して、このような場を作られたのでしょうか。そのあたりのことをお話しいただけたら、と思います。
鈴木 僕は医療問題、特に医療事故、医療の質や安全などをテーマにしていています。小児救急も大きなテーマの1つです。今の和田さんの質問への答えは、これまでの皆さんの発言の中にすべて入っていると思います。それぞれの方の発言を非常に重くうけとめました。今までも、ひとつひとつ教わりながらここまでやってきたのです。
今日、この3つの家族の話を聞いて、みなさん、どう思われましたでしょうか?この3家族は、ひとつでも状況が良い方向にころがっていれば、おそらくここにはいなかった。言い方を変えれば、いつぼくたちがここに座っていてもおかしくない。そういう立場の人たちです。
システムの矛盾や制度のゆがみは、いつも真っ先に一番弱いところにダメージを与えていきます。僕は戦争の取材にもかかわってきましたが、たとえばアフガニスタンの難民の中で最初に死ぬのは赤ん坊です。次はおばあちゃん。体力のない順、弱い順に倒れていくのです。日本の医療においては、今、小児科がそういう立場にあり、特に象徴的、集約的に問題が現れているのが小児救急なのだ、という認識があります。
僕が小児救急の取材を手がけたのは今から1年半くらい前、中原利郎さんの自殺を知ったときでした。夜、ホームページを見ていて、たまたま「中原利郎先生過労死認定支援の会」のサイトを見つけたんです。
それまで小児救急というのはそれほど関心がある分野でもなくて、夜の病院に行くと、まるで夜間保育園みたいに子ども達で一杯だな、とか、たらい回しの話がときどきニュースになるな、たまには医療事故もあるんだろうな、くらいにしかわかっていなかったんです。
でも、その後、一関の佐藤頼ちゃん、豊田理貴ちゃんのことを取材するうちに、実はまったく同じような悲劇が日本中のあちこちでいくらでも起きていて、医師の過労の問題も、小児救急のシステムの問題、小児科医が夜になかなかつかまらないという問題も、せっかく救急病院にたどり着けてもその病院で必ずしも救急医療の質が担保されていないという問題も、何も解消されていない、まさに社会の問題だということに気づいたわけです。
それで去年の7月、とにかく3家族で会ってみようじゃないか、と。ようやく小児救急対策にのりだした日本小児科学会の中澤先生もそこに呼んで、とにかくみんなで膝をつき合わせて話しをしてみよう、ということから始めたのです。今日このシンポジウムは、その時の出会いの延長線上にあります。
それぞれの家族が象徴的にかかえている問題は、あまりにもばらばらで、ともすれば共通点がないように見えるかもしれません。ただ、このまま小児医療を放置しておけばいつか同じ悲劇が起きる、もうこれ以上医療者にも、患者にも悲劇は起こしてはいけない。社会としてこどもを守らなければいけない――という3点の気持ちだけは一致しているんです。そのための活動を、今日、東京の下町、亀有から起こしていきたいと言うことなんです。
みなさん、小児救急の現状をご存じでしょうか?
簡単に今の小児救急の有りようを御説明したいと思います。スライドをお願いします。
15歳未満の子どもは今、全国で1781万人。23年間連続で減り続けています。
この子どものうち3人に1人が、年に1回は時間外の救急を利用しています。
子供がなぜこんなに夜中の病院に駆けつけるようになったのか? いろいろ言われています。女性の社会進出、核家族化が進んで「風邪だから心配ないよ」と言ってくれるオジイチャン、オバアチャンがいなくなった。今あちこちの医師会で、夜間救急センターをやっていますが、これが午後10時には閉まってしまう。三分の一くらいの施設にはレントゲンもない。などなど、いろんな原因が重なっているんですね。
子供の3人に1人が病院にいくといっても、本当に重症な子どもは100人に5人程度です。でも、一見軽症のこどもなかに重症の子供が紛れ込んでいて、それを見逃してしまったら大変なことになってしまう、という恐ろしさがあるわけです。
これに対して、今小児科を主として標榜している医師は日本に1万4千人います。その中で病院勤務医は6500人。小児科を持つ病院は、今3500を切ったところです。
3,500をきった病院の中で、小児科医は1人だけという病院が全体の4分の1です。2人勤務の病院も4分の1です。小児科医はただでさえ少ないんですが、その少ない小児科医が、都会でもバラバラに配置されている。医師の絶対数が少ない田舎に行くと、さらにバラバラで、たった1人の小児科医がその地域の基幹病院を支えている、という状況になっています。その小児科医が1人あるいは2人で、昼間の診療も夜の小児救急もすべての診療を担おうとすれば、その過労は大変なものになるわけです。
一方、子どもの医療事故への怖さもあって、小児救急を避ける病院はたくさんある。それでも一応救急病院の看板だけは掲げているので、親としては、小児も診てもらえるのではないかと思って一生懸命になるし、たらい回しが起きてしまう。
今の時代、24時間の小児科医による診療体制、それに加えて、軽症者の中に紛れている重症者を確実に見つけ出して確実に救う、この二つが同時に求められているんです。でも、親からすれば、ここに行けば大丈夫という医療拠点がなかなか見つけにくい状況ですね。その中で、過労の問題も、たらい回しの問題も、医療の質の話も出てきているのかな、と思います。
もうひとつ深刻な話しをします。病院の不採算性の問題です。小児科の診療報酬だけが他の診療科に比べて特別に低いというわけではないのですが、子どもは使う薬も少ないし、入院日数も短いので、小児科をがんばるほど、病院経営は圧迫されがちになります。すると、どういうことが起きるのでしょうか。先ほど、小児科がある病院が3500を切った、ともうしましたが、90年に全国で4119あった病院の数は、2003年に3283まで減ってしまいました。小児科のある病院が減ると、救急患者は近くの小児科のある病院に殺到するわけです。するとその救急病院での小児科医の勤務状況はさらに過酷になります。するとたまりかねた小児科のドクターは病院を辞めて開業する道を選ぶようになっていきます。その方が収入も良いし、メチャクチャな時間外労働からも解放されるからです。辞めてしまった医師の補充は今なかなかできません。するとその病院でも小児科をやめてしまう。そうなると、患者はさらに残ったわずかな病院に殺到する。こういう悪循環が日本全国で進行しているんです。
もう少しだけ暗い話をすると、小児科医の高齢化や、若い人が入って来ないという問題があります。東京で小児科を標榜している医師の3分の1は70歳を越えているんですよ。若い人にとっても、こんな過酷な職場にはあまり魅力がない。田舎の病院では、一度小児科医を手放してしまうと、二度と確保できないというのが常識です。
例えば岩手県で、県内では充実していると言われる盛岡市周辺の町でも、地元の唯一の小児科医がいなくなってしまった。町長は町を発展させるために、子育て支援をうたっており、そのためには小児救急を充実させなければいけない。小児科医を確保するためにどうするか。岩手医大に行って断られ、東北大に行って断られ、東京の病院を回って断られJICAに行って断られ、最後は「国境なき医師団」まで行って断られてくる。
でもこうやって、少ない小児科医をそれぞれの地域で取り合っていると、もう共食いの中でみんなが共倒れになっていくしかない、という状況になるわけです。
こうしていろいろ並べてくると、少なくとも小児救急が瀕死である、死に態である、ということはご理解頂けるかと思います。
なぜこんな問題が今まで放置されてきてしまったのか。国としても地域ごとの状況があまりばらばらなので、なかなか統一的な施策が取りにくかったといえます。医師会と病院が連携してシステムを作っていくことに、一定の補助金が出ていますが、まだまだ付け焼き刃的な対応にすぎない。
学会も社会的責任があるにもかかわらず、社会に向けて、大変なことになる、何とかしなければという声をあげてこなかった。
結果としてこの国では病院の小児科、小児科医と子どもたちが置き去りにされてしまったんですね。でも、小児救急を置き去りにしてきたのは、実は今日ここにいる僕も含めた市民の側でもあるんですよ。皆さんと同じように、僕にも、夜こどもが熱を出して不安で病院にかけこんだり、なんで救急車がすぐに出ないのかと思ったり、あのいい小児科医に出会わなければいったいどうなっていたんだろう、という経験があります。でも、でもね、そういう痛みというのは、こどもが良くなってしまうと忘れてしまうんですよね。自分の痛みではないから。
それから、我々、メディアの責任もあると思いますが、全体の状況がよく知られていない、ということもあります。今から思うと、こうして彼ら3家族の話を聞いてみると、知らないってことは罪なんだ、という風に僕は今思っています。知りもしない、痛みを忘れてしまう、だからまた日本のあちこちで同じような悲劇が繰り返されてしまうんですね。
それでは、夢も希望もないのかというと、あたらしい取り組みはあちこちで広がっています。その一つが、さっき中澤先生が話していた日本小児科学会の地域小児科センター構想です。スライドを参照してください。拠点の病院に10人から15人くらいの小児科医を集めて、確実な受け皿をつくってしまおう、と。それだけのドクターが集まっていれば休みも取れるようになるのではないか、という構想ですね。学会が言ってだけじゃないか、という声がずっとあって、必ずしも足並みが揃っているわけではなかたのですが、厚生労働省は、来年度からこの案をベースにした医療計画を作成して公表するよう、都道府県に命じています。つまり、学会が描いた絵に、国が乗っかってきている状況なのです。
みなさんにもご理解いただいているように、医療の被害者にあたるこういう3家族が、医療を救おう、みんなで手を合わせなくてはいけない、ということで集まって声をあげるようなことも、これまではなかったことなんです。僕の隣りにいる中澤さんにしても、学会というお高くとまった学術集団の人たちが、こういう場におりて来て話をすることも、これまではならありえなかった。だから僕らも市民の立場で、小児救急の問題をじっくり考えていこうじゃないですか。来年度からの地域の医療計画、これは都道府県がつくるものですが、それに注目してください。自治体はどうすれば医師の配置転換ができて、みんなが共倒れにならない態勢を作れるか、みんなで考えて行きましょう、という時代がやってきます。
ネットや集会でも、隣近所でもいい、みんなが無関心にならずに、この問題を自分のこととしてとらえ、声をあげていくことが今一番大切なんじゃないかと思います。
最後に、思っていることをひとことだけ付け加えさせて頂きます。
ときどき、六本木ヒルズの回転ドアの事故のことを思い出します。去年の3月に、大阪の子どもがお母さんと一緒に上京して、高速の回転ドア駆け込んだ時に頭をはさみ、そのまま亡くなった訳です。調べてみると、同じような事故がたくさん起きていた、しかし、放置されていた、ということが分かりました。
ぼく自身、六本木ヒルズがオープンして間もなく実際あの回転ドアに入っています。その時、「危ないな」と感じたのです。でも、それは自分が危ない、ということであって、子供が危ないという想像力を持つことができなかったんですね。その後回転ドアが撤去される風景を取材しながら、メディアの一員である自分のことを考えました。予見可能性というのはとても難しいけれど、こうして批判に回るメディアも、実はこどもを死なせた側にいたんじゃないか、という気がしたんですね。
大人が子どもを守るためには想像力が必要です。大人が想像力をなくしてしまえば、救える子どもも救えません。悲劇を繰り返さないためには、みんなが痛みを共有する、イマジネーションを共有する、ということをやっていくしかないのではないか、と感じます。
ですから、今日このきわめて珍しい形のシンポジウムが、市民、医療者、患者もみんなが一緒になり、我々の未来を考えるきっかけになってくれることを心から祈っています。ありがとうございました。(拍手)
和田 鈴木さんが最後に、今日が未来を考えるきっかけになったらいい、という発言がありました。会場には、何人か、未来の医療を担う、医学生が座っておられます。ゆきさんにマイクをふりこれからを語っていただきたいと思います。
大熊 前の方の方から、お名前と所属からお願いします。
小池 宙 東京医科歯科大の医学部6年の小池宙と申します。
参加されている市民の皆さんに、聞いていただきたいことがあります。
僕は、様々な医療系の学生が多く集まる団体を運営しています。そこで経験したことを思い出しながら、今日の講演者のみなさんのお話を聞かせていただきました。特にいろいろ思い出してしまったのは、あなただけが特別ではない、と周囲の人たちから責められた、ということでした。
僕は、学生団体の活動を通して、薬害、医療事故、小児医療、救急などの問題を、これから医療現場にたつ者としていろいろな形で扱ってきました。しかし、自分の大学では、周囲の学生は無関心、だけならまだいいですが、活動家というレッテルを貼られての攻撃が学生たちからあります。
それは学生文化が悪いのかな、と思っていたこともあります。しかしそれが社会の構造なのかな、と今は思います。活動している人に向かって、無関心または攻撃を向けられる、それは人間社会において、多分当たり前の構造なのでしょう。しかし、それは間違った流れである、とも思います。
市民ができることは、そのあたりにあるのではとお願いしたく、ここで話します。当事者でない、医療者でない、被害者でない人ができることがあると思います。
当事者たちに無関心であるのではなく、攻撃するのでもなく、迎え入れてもらえる状況がつくれるのではないかと思います。市民が、隣の人たちに語っていただければ、無関心や攻撃という流れは、変わると思います。
私たちの学生団体の現代表がよく「学生だからできること」をやると言っています。学生はちっぽけで、資格も知識も、つてもお金もありません。でもぼくたちだから出来ることがあるはずで、それを目指して活動しています。当事者ではなく医療者でもない市民の方たちに、「市民だからできること」をやっていただければ、と学生として願います。
私たち医療系学生が、未来において夢を持って人の命を救えるよう、隣の1人2人3人、5人、そして10人に、今日のことを話していただければと思います。(拍手)
大熊 お医者さんではなくてソーシャルワーカーを目指している方もいますが。
一言どうぞ。
成澤 俊輔 素晴らしい話をありがとうございます。埼玉県立大学社会福祉学科3年の成澤俊輔と申します。小池と一緒に学生団体の活動をしています。
話を聞いていて、豊田さんはじめ被害にあわれた方が、皆さんにメッセージを送る。そして医療者側の方が、今の環境を変えていこう、自分たちが働きやすいように、自分たちがもっとやりたいことをやっていこう、やりたいことを言っていく。せっかく小児医療を目指したい人が、システム上の問題でうまくいかなかった。このようなシンポジウムが開かれることもまれであり、学会も動きを見せることができなかった。それなら、次世代を担うぼくらが、もっとアクティブに、現行のシステムを変えるように、活動しながら担えたらいいなと。僕らは、ライセンスもお金もない。肩書きを背負っていないかわりに、いろんなことを吸収できたりする。社会の問題について深く真剣に考え、自分たちが次を変えるんだという認識を持ちながら、学生ならではの視点やアプローチを持ちながら考えたいと思います。
大熊 今の成澤さんは、「網膜色素変性症」でお目が見えないのです。見えないことを生かして、ソーシャルワーカーに、ということでこの道に進んでいます。
では、あちらの学生さん。
山本大介 順天堂大学医学部4年の山本大介と申します。お話しありがとうございました。
全然今日うかがった話を全く知りませんでした。恥ずかしかったですね。鈴木さんの書かれた本を読んだのも2日前です。読んでショックをうけました。特に将来医師になるものとして、中原さんの話がすごく印象的でした。正しいことをしたい、いい医療をしたいという思いが踏みにじられてしまったこと。
現状を変えようという活動に対して、医科歯科大の小池の話もありましたが、批判的な声が出るという現状もあります。医療は医療だけではなく社会を見ていくべきだと思います。何が正しいか、悪いか、難しいが、少なくとも正しいことが認められていく社会であって欲しいと思います。中原さんが一生懸命されていたように、僕も将来医師になって正しいことを一生懸命やりたい。医療だけでなく社会を見て、正しいことをしていきたい。その中で正しいことがちゃんと救われていく社会であってほしい。抽象的ですが、そんなことを思いました。(拍手)
大熊 ありがとうございました。では、真ん中あたりで手を挙げていらっしゃる、本田さん。
本田 宏 済生会栗橋病院の本田です。25年間医者をやっています。外科の勤務医です。3人の息子は3人とも誰も医学部に入ろうとしていません。残念ながらそれが現実です。背中を見ていて選ばなかったようです。私は賢明だな、とも思っています。
医療費の問題と、予見可能性のことについて話させていただきます。誤解があるといけないと思います。
日本は医療費を先進国に比べるとまったく使っていません。みなさんが夜間自分で払うなんて必要は、全くありません。欧米先進国並みに医療費を使えば、あと10兆でも20兆でも増やせるんです。日本人は税金を払っていても医療費には回ってこなくて、特殊法人、道路工事、高速道路の緊急電話などに使われているわけです
今、日本で胃癌で4週間ほど入院していただいて、手術代など全部すべてひっくるめて120万円です。高速道路の緊急電話、誰も使わないのが1台240万円です。500メートルおきに両側につけています。実はこれは一台40万円でできるものを200万円も水増ししているのです。あちこちで行われているこのような無駄使いを、ちょっとこちらへ持ってくれば、何もこどものお母さんが夜実費を払わなくてもいいんです。無駄に使っているお金をもってくればいい。
小児科の先生はほんとうに疲れて気の毒と思います。だけれども、先週のNHKをご覧になりましたか? がんの専門医が足りない。緩和ケアも足りないです。救急医も足りないです。なぜか。日本の医者は今26万人ですが、欧米先進国なみの人口平均で考えれば、38万人いなくちゃいけないんです。38万人いなくちゃいけないところを26万人でやっているから、小児科はもちろん足りない、癌の専門医も足りない、救急も足りない、麻酔科医も足りない、すべて足りない。青森では今、産婦人科医がいない市があります。
政治にちゃんと目を向けて、我々は民主主義国家に一応生きているのですから、投票に行って、無駄なお金を医療に持ってくれば、我々のお金は一円も上げずにいい医療はできます。ぜひそのあたりをご理解いただいてお帰りいただきたい。
みんなで力を合わせていきましょう。うちの研修に来ている医師が一年たって言いました。つらかったけど、患者が元気になって帰る時の笑顔に励まされたと。私もその気持ちで外科医を25年やってきました。でもいつ勤務医やめようかと真面目に思います。(拍手)
大熊 今、本田さんがおっしゃったことはそのとおりです。GDP当たりどのくらいの医療費を使っているか、というと、日本は先進諸国のずうーっと下の方に張り付いています。新聞を見ると「また1兆円増えた」などと書かれていますが、あれは厚労省の発表に、ジャーナリストが勉強しないで惑わされているのです。
本田さんは、自分の背中を見てお子さんはお医者さんにならなかった、とおっしゃいましたが、医者なんかになるなといわれていたのに、医者になり、しかも小児科医をめざそうとしている中原智子さん、お願いします。
中原 智子 今日はたくさんの方々がお越しいただき、ありがとうございます。
私は父の反対を押し切り、医学部に進学し、今6年生になります中原と申します。
小児科というものは父を死に追いやったいやな科だなぁ、というイメージを持っていました。小児科の臨床の授業の時に、今は亡くなってしまった飯倉教授が私にこういうメッセージを贈ってくださいました。「こどもには、発達があり、未来があり、病気が治る可能性がある」。私はこの言葉を聞いて、はっと気づかされました。父が毎日一生懸命働いていたのは、そういう子どもたちを救おうという気持ちから、自分の体のことも心のことも考えることもできなくなって、うつ病になり、自ら死を選びました。しかし、私はそのメッセージをいただいて、父がなんのために一生懸命働いてきたのか、ということに気づき、自分が大好きな子どもたちのために小児科医になりたいと今考えております。
医師の健康なくしては、こどもたちの未来は作れないのではないか、というふうに思います。ひとりでも多くの方々に小児医療が抱える問題を考えていただいて、このような尊いこどものいのちがなくなってしまうということも、一生懸命働いていた医師の命がなくなることもなくなる社会になれるように、なってほしい。そのために今後もみなさん考えていただきたいと思いますし、私も頑張ってこどもたちの尊い命を救えるような医師になりたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
和田 智子さんが安心して働けるような小児救急の体制や労働環境の問題など、今日2時間では語り尽くせないと思いますが、これからも考えていきたいと思います。時間が来ていますので、そろそろお開きにしたいのですが、ご発表いただいた順にシンポジストの方最後一言ずつ願いします。
中原 私たち、一生懸命しゃべっていたのに、なんか、最後に娘に、みなさんの拍手と涙をもっていかれた感じです。私も負けないように、もっともっと言いたいことを言い続けますので、応援とご支援をお願いいたします。(拍手)
佐藤 本当に今日はありがとうございました。何を話せばよいのかわからなくて、ほんとうに戸惑っていたし不安でしたけれど、みなさんが一生懸命聞いてくれるのを見て、がんばってきてよかったな、と思いました。
私は今、正直なところ、精神的にとても不安定です。ここに来る前も、新幹線も違う方向に乗るとか、来ないとか、言ってみんなを困らせましたが、本当に来てよかったなあと思いました。ありがとうございました。(拍手)
豊田 昨年の7月にここにいらっしゃるみなさんにお会いして、まさかこのように大きなシンポジウムが実現するところまで持っていかれるとは思ってもいませんでした。今日、これだけの皆さんにお集まり頂けて、本当に感激しています。
本田先生のご意見も、小児科の宇佐見先生のご意見も大変勉強になりました。もう一度また新たな気持ちで、みんなで勉強していきたいな、と思っています。そういうことをすることで、これからも、息子と一緒に生き続けていきたいと思います。どうも、ありがとうございました。(拍手)
中澤 本日はありがとうございました。この動きが、シンポジウムで力を得たと思っています。私たちも自信をもって、学会が提案していることに対して、動きを強め、早めていきたいと思っています。
本田先生がおっしゃったように、最終的に政治を動かす必要がある。ぜひぜひそういう目で政治をとらえていただきたい。
道路に関しては、多少、無駄遣いとは思っておりません。医療過疎地という医者のいないところでは、実は道路が必要です。小児救急、人、患者さんにやさしい道路。広域農道というのが田舎へ行くとたくさんあります。農業のために作ったんです。厚労省管轄の道路があっても不思議ではないと私は思っています。道路に関してはお金を使っていただきたいと思っています。お金の使い方を動かすのは私たち市民の一票であります。
私も今日ここへ来て、大変感動しています。小児科の一医師としてここにいられることはとても幸せに思いますし、同時に私の責任を感じるところです。皆様がたの御支援をこれからもお願いいたしします。(拍手)
鈴木 本田先生の話を若干、補足させていただきます。次世代育成支援としてくくられる、国の予算が1兆600億円あります。その中で小児救急の予算は20億円です。この数字が多いのか少ないのか。単にこの数字を増やせばいいというわけでもないと思うんです。
医療を変えていくにはお金の問題を避けて通れません。本当に必要なお金を本当に必要なところにかけるためには、どうすればいいのかを、とにかく無関心にならずに僕たちは自分の足もとから考えていく、という時代になればいいなと思います。皆が幸せになるためには、一人一人がこういった悲劇を忘れず、足もとを見直すべきです。それから、入り口で、僕の本を売っていますので。
(拍手)
和田 ありがとうございました。今日はこれで終わりですが、これからが始まりとも考えられるかと思います。どうぞ今の思いを秘めたまま、関心を持ち続けていただけたらと思います。
私は子どもがいませんが、これから小児救急のお世話になるでしょうし、弟も小児科医で、やはり大変な環境の中で医療を支えているのだろうと思います。人ごとではない、という思いを持ち続け進んでいけたらと思います。
今日は、連休中ですが、これだけの方が集まるとは、正直思っておりませんでした。主催者の清水先生に、「何でこんな日にしたんですか?」と言ってしまったんですが、本当に連休のど真ん中でお天気もよいのに、こんなに沢山の方に集まって頂きました。皆様に拍手をお願いします。(拍手)
前の席にパソコン要約筆記を担当してくださった方が4人いらっしゃいます。まだパソコンに向かっておられます。この方たちのおかげで、耳が聞こえない方がずっとこの話を聞くことができました。
ピンクのゼッケンの方、スタッフの方たちです。今日だけでなく、何ヶ月も前から準備していただきました。ありがとうございます。
主催者の清水先生、いらっしゃいますか?
昨日、亀有の駅前で先生がチラシを配っていたのをご存じでしょうか。病院の院長がこのシンポジウムのためにピンクのゼッケンをしてチラシを配るって、なかなかないことだと思うんです。医療が今変わり始めている、ということを葛飾区は私たちに感じさせてくれているのではないでしょうか。
中原のり子さん、佐藤美佳さん、豊田郁子さん。どれほど辛い思いをして話しをしてくださったかと思うと、泣けてくるんですが、泣いていても始まらない、ということは皆さんよくご存じです。豊田さんは2時間しか寝ていないんですよね。佐藤さんは徹夜で原稿を書いていらしたし、中原さんも多分同じだろうと思います。これだけの方が集まって頂いて、皆さんにメッセージが伝わったことがとても良かったと思うし、これからの活動の励みになるんじゃないかと思います。
中澤先生、異端児とおっしゃっていましたが、異端児が増えることによってそれが正統派に変わっていくのではないでしょうか?先ほど、これを小児科学会でやってほしいという御発言がありました。私からもぜひよろしくお願いします。(拍手)
この拍手は、やってください、という皆さんの思いだと思います。
鈴木さん。本をご紹介しようと思いましたが、御自分でされましたね。出口で売っていますので、お読みになってください。
最後に、ゆきさんから会のまとめをしていただき、今日は幕を閉じます。
大熊 この日本は、本当に縦割りの世界です。この中にメディアの人がおられると思います。讀賣の鈴木記者がキャンペーンしたのなら、追いかけるのはやめよう、という狭い了見はお持ちにならないように。メディアの方たちは、お互いに垣根をとって盛り上げて頂きたいなと思います。(拍手)
冒頭に、事故の被害者は「殺された」と思う、という話しをしました。今新聞を賑わしている尼崎の鉄道事故でも、最初のうちは、殺したのはへまな運転手のせいだと新聞も書いたし、みんな言っておりましたが、ATSがちゃんとついていなかったとか、止まる駅が増えたのに同じ時間で行けと言われたとか、1秒でも遅れたらペナルティーだとか、そういうことがあの運転手さんを追い込んでいた、ということがだんだんわかってきました。医療事故も非常に似たところがあると思います。
お役所は難攻不落に見えますが、担当の谷口隆課長もとても一生懸命になっているようです。尾辻厚労大臣も同様です。お会いするときに、中原さんのことが報道されたテレビをビデオに撮って持っていったんですが、「昨日、ちゃんと見ました」と言ってくれましたし、鈴木さんの本もちゃんと読んでいます。尾辻さんは、あまり医師会に気を遣わなくていい、医師会の票がなくても当選される方ですので、あの方がいる間に、何とか改革の手がかりをつかめないかと思います。大臣が何か言ったから変わるというほど生やさしいものではありませんが、いろんな人が応援をして、安心できる小児医療の仕組みをつくらないと自民党政権もつぶれる、というような勢いで世の中を変えていくきっかけになるといいな、と思います。
今日のビデオも尾辻さんに届けたいと思います。長い時間ありがとうございました。