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西伊豆 堂ヶ島、松崎
堂ヶ島

入り組んだ海岸線やぷかりと浮かぶ小さな島々が特徴的な西伊豆・堂ヶ島。この景観を余すところなく満喫できるのが、堂ヶ島マリンの遊覧船だ。
コースの中でも見どころは、天窓洞と三四郎島。天窓洞は国の天然記念物にも指定された名所で、洞窟内の天井から光が差し込む神秘的なスポット。陸に上がり堂ヶ島遊歩道を歩くと、この天窓洞を上から覗くことができ、波打つ海面が見える。

潮の干満によって道が現れる「トンボロ現象」で知られる三四郎島。かつてこの島に潜んでいた源氏の若武者「伊豆の三四郎」と恋に落ちた地元の豪族の娘・小雪は、このトンボロ現象によってできる道を通って三四郎に会いに行っていた。しかし、ある日渡りきらないうちに潮が満ちてしまい、海に没したという話が伝えられている。トンボロ現象とは陸地と島の間に沿岸流によって運ばれた砂や石が堆積してできた砂洲が、波の作用によって水面に現れる現象。堂ヶ島の三四郎島も干潮時には歩いて渡れるが、潮が満ちてくると戻れなくなる。小雪の悲劇を繰り返さないよう注意しなければならない。

三四郎島

新鮮な魚類が美味しい「民芸茶房」

ひもの定食1,050円

中瀬邸

遊覧船が観光客を運ぶ穏やかな堂ヶ島の海は、400年前までは勇猛な「伊豆水軍」が活躍する舞台だった。伊豆水軍とは海上輸送の交通費などで生活する海の民のことで、切り立った海岸に城を築き、深く入りこんだ入り江や河口に船だまりを作っていた。それが現在の港になっている。

そそり立つ白い断崖、
この中に天窓洞がある。

なまこ壁通り

天窓洞

西伊豆は夕陽の町。見る季節や場所によってその趣は様々だがまるで一枚の名画や、映画のワンシーンのようなロマンチックな時間がゆっくり流れる。夕陽のスポットは多いが堂ヶ島、黄金崎、仁科漁港、太田子海岸、安良里港などが有名。
特に、太田子海岸の三月の春分の日と、九月秋分の日の前後に、男島と女島の二つの島の間に夕陽が沈む様子は神秘的で、多くのカメラマンで大混雑する。右手前の奇岩は、ゴジラともメガネッチョと呼ばれ人気がある。

長八美術館正面

太田子海岸の夕陽

神々しいまでの美しさ、太田子海岸の夕陽。観光案内書から転載。是非撮影に挑戦したいものだ。

龍の図

このエリアには「らんの里堂ヶ島」・・約9万uもの広大な面積を持つ敷地内に常時6,000株のらんが見られるフラワーパークがある。空中庭園や迷宮庭園などの鑑賞温室のほか、堂ヶ島を一望する見晴台やつり橋からの眺めもよい。

加山雄三ミュージアム・・海と伊豆を愛する若大将、加山雄三の魅力が館内一杯に広がる。自筆の約40点の絵画をはじめ、愛用のギター、映画ポスターなどの展示あり。私はあまり関心がないが、女房殿は青春時代彼のファンだったとかで大感激。

松 崎

松崎は古くから遠洋漁業の基地として、また早場マユの産地として栄えた小さな港町で、ゆったりと流れる那賀川沿いに、なまこ壁の美しい建物や塀、蔵などが点在し、明治時代の街並みや風景が見られる。しばしば映画やテレビドラマのの舞台となり、若い人にも人気がある。
なまこ壁 防火や防湿対策のため平瓦の継ぎ目に漆喰を盛り上げたものがなまこの形をしていることから名付けられた。明治時代から昭和初期までなまこ壁の建物が多く造られた松崎では、白と黒の菱形の格子模様が町並みに独特の雰囲気を醸し出している。

中瀬邸 明治初期、呉服商家として建てられた中瀬邸は、わずか数代のうちに財をなし、大地主となった。1988年(昭和63)に母屋や土蔵など七棟からなる邸宅を町が買い取り現在のように保存している。母屋では、呉服問屋の再現や歴史的資料の展示、モニターテレビ・パネルにどによる観光案内のほか伝統工芸などの実演、地場産品のおみやげ、喫茶コーナーなど併設している。この付近は、松崎文化を象徴するときわ大橋や時計塔、長八美術館やなまこ壁通りなどがあり、独特の雰囲気がある松崎の中心地である。

長八美術館 松崎出身のこて絵の名工・入江長八の作品を紹介する美術館。「伊豆の長八は江戸の左官として、前後に比類のない名人であった。浅草の展覧会で長八の魚づくしの図のついたての出品があったことを覚えている。殊に図取りといい、こて先の働きなどは巧みなもので、私はここでいかにも長八が名人であることを知った」−高村光雲。
長八の漆喰鏝絵は西洋のフレスコに勝るとも劣らない壁画技術として、芸術界でも高く評価されている。両者は共に漆喰の湿財上に図絵する技法で、フレスコは漆喰面と、顔料溶液との化学的融合により堅固な画面を作り出すのに対して、長八は特殊な方法で下地を作り、色彩を自由に駆使する鏝画で、薄肉彫刻を併用する長所がある。このように貴重な長八の代表作品約70点が展示されている。

長八のプロフィール 
伊豆の長八(本名・入江長八)は天祐又は乾道と号し、江戸末期の1815年(文化12)伊豆国松崎村明地(現在の伊豆松崎町)に農家の長男として生まれ、この浄感寺で学び育てられ、12才のとき同村の左官の親方関仁助のもとに弟子入りし、23才のとき江戸へ出て絵を狩野派の喜多武清に学び、かたわら彫塑の技を修めてこれを左官の業に応用し、漆喰を以って絵を画き或は彫塑して華麗な色彩を施し、新機軸を開いてついに長八独特の芸術を完成させた。日本橋萱場町の不動堂再建にあたって、当時26才のとき選ばれ御拝柱の製作にあたり、左右柱に一対の龍を描き上げて、名人よと一躍江戸八百八町に名声を博した。

作品の多くは江戸に集中していたが、震災や戦災で焼失してしまい、郷里の松崎町にある作品を除くと、数は極めて少ない。1889年(明治22)「わが秋や月一夜も見のこさず」の言葉を残し、享年75才でこの世を去った。墓は浅草正定寺と松崎浄感寺(長八記念館)にある。

新鮮で味抜群の魚類

飛び込みで入った「民芸茶房」が大当たり。漁港・魚市場の近くにあり、毎朝地元で水揚げされた旬の地魚を使った料理が評判の和食処だったのだ。地魚の刺身が7種類盛られたボリュームたっぷりの刺身定食や脂ののった天日干しのひもの定食、焼魚定食、いか煮定食など定食類が充実。いずれも美味しそうで目移りがし、なかなか注文が決まらない。