東京の洋館ーその1ー  

千代田区有楽町1-13-1
第一生命ビル、終戦直後GHQで有名

千代田区丸の内2-1-1
明治生命館

千代田区丸の内1-3-1
銀行会館

千代田区丸の内1-4-6
工業倶楽部会館

日本建築会の祖と言われる辰野金吾が、ヨーロッパの銀行を1年以上をかけて視察し、ベルギーの中央銀行を手本に設計。工事に5年半を費やし、明治29年(1896)に完成した。辰野の中期の代表作として名高い。関東大震災や東京大空襲など経験しているが、幸いにも被害は最小限に食
い止められ、現在もほぼ原型を留めている。ルネッサンス様式の美しさをたたえた重厚感のある石造りで、国の重要文化財にも指定されている。
明治維新により日本の新しい歴史が始まりました。人々は広く海外へと目を向けて、新しい文化を吸収し、巷には新規なものが溢れ、生活は大きな転換をして行きました。人々は洋服を着るようになり、文明開化の象徴的なレンガ造りのモダン建築、ガス灯、人力車、鉄道馬車などがお目見えし、一躍東京名物となりました。
優美、瀟洒、重厚の世界とも言うべき明治、大正に造られた東京の洋館をウォッチングしました。日本における西洋建築の基を作ったのはイギリス人コンドルでした。Web、雑誌などから18の建物を巡り、コンドルとその弟子達の作品を第1部、その他の作品を第2部として構成しました。このノスタルジックな散歩とも言うべき洋館ウォッチングをご覧ください。


ジョサイア・コンドル Josiah Conder
1852年、英国ロンドンに生まれる。明治10年(1877)、日本政府の招聘により来日。工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の初代教授に就任し、日本で初めて本格的な西洋式建築教育を行った。門下には、東京駅の設計で知られる辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊など、近代日本を代表する建築家がいる。鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂など多くの洋風建築も設計し、のちに日本最初の設計事務所を開設する。東京帝国大学名誉教授、(日本)建築学会名誉会長・名誉会員でもあった。日本画を学び、日本人を妻とするなど終生日本を愛し、大正9年(1920)、日本で永眠。
旧古河邸
北区西ケ原1-27-39
一般公開、有料

山小屋風のビリヤード場
本館と地下でつながっている

古河財閥の3代目・古河虎之介が、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルに依頼して建造。竣工は大正6年(1917)。武蔵野台地の南斜面という地形を利用し、北側の丘に洋館、斜面には洋風庭園、低地には池を中心にした和風庭園が配されている。同様に洋館内部にも和様折衷の趣向が随所に見られる。戦後は英国将校の宿舎としても使用されたが、現在は大谷美術館として公開されている。
英国貴族の邸宅にならった古典様式と庭園の組み合わせがユニーク。建物の外壁が黒い色で装飾されており、些か不気味な感がする。バラの季節は格別に美しく多くの来園者で賑わう。
旧岩崎邸
台東区池之端1-3-45
一般公開、有料。重要文化財
広いヴェランダ
三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎の長男、岩崎久弥が明治29年(1896)に建てた木造の邸宅。ニコライ堂や鹿鳴館を設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの手によるもので、洋館の建築面積は約531u。装飾には17世紀のジャコビアン様式が採用されており、特に1階の客間は見とれてしまうほど美しい。全体的にはイギリス・ルネッサンス風でまとめられている。洋館のビリヤード場と日本式の建物もあり、それぞれ地下道でつながっている。

[所有者の変遷}
越後高田藩江戸屋敷から旧舞鶴藩などを経て、岩崎家本邸へと変遷した。往時には、15,000坪余りの敷地に20棟もの建物が並んでいた。第二次大戦後、国有財産となり、最高裁判所司研修所等として利用された。平成6年(1994)に文化庁の所管となり、平成13年(2001)東京都の管理となる。昭和36年(1961)に洋館と撞球室が重要文化財に指定。
旧岩崎邸庭園配置図
グリーンの部分が現在の旧岩崎邸庭園。グレー部分は、岩崎家が邸宅として使用していた敷地の全体。
綱町三井倶楽部
港区三田2-3-7
非公開
三井家の集会迎賓施設として大正2年(1913)に建てられたコンドル後期の傑作である。ルネッサンス様式を基調にしながら、円弧状に張り出したヴェランダや内部の楕円形の吹き抜け、ドームなどにバロック様式の特徴が加味されている。とりわけ素晴らしいのは、南側である。庭に立って建物を眺める時、コンドルが何よりも庭園を重視し、さらにそれに面したヴェランダの意匠を強く意識して設計に臨んだことが分かる。平坦な土地に造られた洋風の庭は、ルネッサンス風幾何学庭園である。
現在、三井グループの会員制クラブとして運営されており、一般には非公開。この写真は冊子「緑と水のひろば」NO.32から転載。
日本銀行本店旧館
中央区日本橋本石町2-1-1
1週間前までに要予約、見学可。重要文化財
東京駅
千代田区丸の内1-9-1
丸の内のオフィス街が変貌を遂げるなかにあって、どっしりとした重石のような存在感を見せつけているのがこの東京駅。日本建築界の重鎮、辰野金吾が設計を手掛け、両翼にドームを抱いた日本最大のレンガ建造物が大正3年(1914)に完成した。しかし、ドームは昭和20年(1945)の空襲で炎上。復旧におよばず、2階建ての駅舎となった。現在はホテルやギャラリー、レストランとしても使用されている。
竣工当初の姿への再建を望む声も多い。
丸の内の正面
表慶館(東京国立博物館構内)
台東区上野公園13-9
一般公開休止中
正面玄関
皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)のご成婚を記念して明治33年(1900)に建てられた美術館。国立博物館の左手に建っている。設計を受け持ったのは、京都、奈良の国立博物館や、旧赤坂離宮(現在の迎賓館)なども担当した宮内庁技師の片山東熊。明治建築特有の堅苦しさの中にも華やかさを感じさせる建物であり、優美な曲線を用いた内部の装飾や、吹き抜けになった中央ホールなど、至る所に宮殿建築の妙味を漂わせる。
明治時代の洋風宮殿建築を代表するネオ・バロック様式の壮麗な建物である。
迎賓館(旧赤坂離宮)
港区元赤坂2-1-1
年に1度一般公開あり、見学は抽選
宮殿建築で名高い片山東熊の指導の下、明治39年(1906)に竣工。皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が新婚生活を送るために建てられた東宮御所であり、ネオ・バロック様式の華麗な建物は、ヴェルサイユ宮殿を模したと言われる。日本の外交の舞台、迎賓館へと生まれ変わったのは昭和49年(1974)。宮殿建築を保つことに腐心しつつ改装を行い、国賓が快適に過せる居住空間を生み出した。贅を凝らした優美な姿に日本における西洋建築の集大成を見る感じがする。

毎年1回宮殿内の一般公開があり、ハガキで応募の結果幸いに抽選にあたり参加した経験がある。東京転勤直後のことで、今から20年近い大昔の話です。撮影禁止で当然の事ながら、手元には1枚もありません。

このページはジョサイア・コンドルの設計した建築物を掲載しているので、その趣旨から少々横にずれるが、大手町から丸の内界隈には明治から大正期の古い建築保存例として次ぎのものを掲載しておきます。これらはいずれも再開発により超高層ビルに建替えられ、申し訳程度に、ビルの一部として昔の部分が残されているが、些か無残な姿ではないだろうか。

庭園からの全景


三菱一号館(美術館)
中央区丸の内2-6-2
H22(2010)4.6美術館としてOpen

今年H21年(09)11月に復元された赤レンガの三菱一号館は、100年以上前の名建築を同じ場所で建設、当初の姿で再現された。この建物は、明治27年(1894)に完成、クィーンアン様式による丸の内初のオフィスビルだった。
S42年(1968)取り壊されたものを今回復元したもので、今後三菱グループの美術館として公開される。事業主である三菱地所は、復元の狙いを「街づくりの中で文化や環境を重視し、景観も含めて歴史をつないでゆく」と説明している。当時の建物の質感を表現するため、約230万個のレンガも特注し、全国から集まった職人達が積み上げたと言う。見ていて不思議な感覚にとらわれるのは、明治建築がピカピカの新品として現れ、背後に一体的な総合開発で登場した超高層ビルが聳えているからだろう。40年間、そこに存在しなかったものを建設当初の形に再現して、歴史をつないだことになるのかどうか、疑問も感ずる。