金沢番外編
日本一のV字峡 黒部峡谷

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黒部峡谷は3,000メートル級の山々が連なる北アルプスのほぼ中央を貫き、東の白馬連峰、西の立山連峰に挟まれる形で深く切れ込んだ大峡谷。その谷あいを縫うように走る素朴なトロッコで、素晴らしい景色を気軽に楽しめる。「トロッコ電車」の愛称で呼ばれるこの黒部峡谷鉄道は、総延長20.1kmを約16km/hのスピードで80分かけて走る。深い峡谷にかけられた橋は、人を寄せつけない断崖絶壁、エメラルドグリーンに輝くダム湖、清冽な流れ・・・。撮影スポットの連続だが、トロッコの動きと路線の鉄橋で撮影がままならない。トロッコ電車はカメラを捨てて自分の目で見て大きな感動を体感するところなのだ!
(H19(2007).10.30金沢滞在中に訪問)

新山彦橋を渡るトロッコ電車
山彦展望台から撮影

欅平の新名所、足湯。ここから眺める奥鐘橋が素晴らしい。

黒部峡谷の歴史

秘境・黒部峡谷の素顔
黒部峡谷は北アルプスほぼ中央の鷲羽岳に源を発し、長さ86km、標高差3,000mにわたって、深いV字峡を刻みながら日本海へ達する大峡谷で、昭和9年(1934)12月、中部山岳国立公園に指定された。峡谷は、立山・剣岳・薬師岳などの立山連峰と、白馬岳・五竜岳、鹿島槍ケ岳などの後立山連峰の間に、黒部川の浸食によって深く刻み込まれ、八千八谷といわれる多くの渓流を合わせながら、黒部川扇状地を経て富山湾の東端に注ぐ。黒部峡谷流域の平均傾斜は36度と非常に勾配が強く、30度〜45度の部分が全体の70%にも及ぶ。また流域が豪雪地帯に位置するため四季を通じて黒部川の水量が多く、また河川勾配が平均1/40
と急で、流れも速いのが特徴。また黒部川は、水のきれいな川としても知られており、下流の黒部市生地に湧出する地下水は、「全国水百選」にも選ばれている。

後曳橋 沿線で最も峻険な谷に架かる高さ60m・長さ64mの橋。かつて入山者があまりの谷の深さに後ろへ引き下がったことから後曳きと呼ばれる。 

奥鐘橋

奥鐘橋から見た黒部川清流

かつての黒部峡谷
天正11年(1583)、越中領主佐々成政が遠江国(浜松)の徳川家康に同盟を求めに赴く途中、多くの犠牲を払いながら厳冬期の黒部峡谷を横断した、いわゆる「ささら超え」はよく知られている。また徳川時代には、加賀藩によって任命された「奥山廻り役」という山林監視役だけが「山の様子、口外無用のこと」という厳しい掟のもとで入山が許される「藩領防備政策」が行われた。
黒部峡谷は地形が急峻で雪崩も多く入山が容易でないことから、その歴史を伝える資料が少なく、一般の人にとっては「魔の山」とされ、永い間ベールに包まれていた。

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トロッコ電車から見た黒部川清流

電源開発の始まり
やがて時代は明治に移り、冠松次郎らの探検によって、黒部峡谷の姿が徐々に知られるようになった。そこで、他に類を見ない黒部川の豊富な水量や急流が、水力発電に適していることが注目され、大正時代の始めごろから電源開発を目的とした踏査が度々行われるようになった。しかし、黒部峡谷の両岸は屹立した岩壁の連続でわずかな歩道があるのみ、とても電源開発の工事が出来る状況ではなかった。そこで考え出されたのが「黒部軌道」だった。現在は「トロッコ電車」の愛称で親しまれている鉄道だが、その生い立ちは電源開発のための工事資材の運搬に建設されたものであったのだ。
大正12年(1923)9月、まず宇奈月〜猫又間の工事に着手。大正15年に難工事の末、開通したのを皮切りに、昭和5年には木屋平まで、同6年には小黒部までと次々に伸長。昭和12年(1937)7月、欅平まで総延長20.1kmの黒部軌道が完成した。一方、発電所建設工事も大正13年(1924)9月に着手。こちらも大洪水や大雪崩などに見舞われる難工事となったが昭和2年(1927)11月、柳河原発電所が運転を開始、調査開始から数えて10年後のことだった。軌道の延長に伴い発電所建設も進んでゆく。昭和11年(1936)10月には黒部川第二発電所が運転を開始、同年8月には黒部川第三発電所の建設工事に着手した。

そして黒部峡谷鉄道へ
黒部軌道は、電力会社の専用鉄道として、建設用の資材や作業員の輸送がおもな役割だった。時には便乗のお客に「生命の保証はしません」とキップの裏に書き、これを了解の上で乗車させていた。その後、峡谷の自然を求めるお客の増加と地元の方たちの強い要請から、昭和28年(1953)11月に地方鉄道法による営業の免許を受け(関西電力轄封箔S道)さらに昭和46年(1971)7月、関西電力鰍ゥら独立し、黒部峡谷鉄道として現在に至っている。