金沢の歴史

この金沢は私にとっても非常に想いでの多い町である。社会に出て6年間の本社勤務の後、初の転勤がこの金沢であった。当初の1年間は兼六園ふもとに下宿し、毎日兼六園を通り抜けて尾張町の支社へ出勤した。翌年結婚し小立野の社宅に入ったが、当時直木賞候補となりようやく名前が売れ始めた「五木寛之」が近所に住んでいる、と聞いたことがあった(「金沢と五木寛之」については別項で詳しく記載する)。私はと言えば、結婚後も会社の多忙と、寸暇をみつけて没頭したマージャンや、深夜まで彷徨した香林坊・柿木畠界隈の記憶ばかりで、金沢の町については全く知識を得ないまま過ごしてしまった。
今回(2006.11.10〜)約40年ぶりに訪れ1週間滞在し、当時の思い出を辿りながらゆっくり歩いてみた。多くの場所が激変していたが40余年間、時間が停止したままのところも結構あり涙腺が緩む思いだった。
改めて金沢の歴史・文化を読み直し、以下のように取り纏めてみた。

加賀百万石の雅に彩られた城下町金沢は森の都、北陸の京都と呼ばれ、兼六園をはじめ緑豊かで水清く心を和ませてくれる場所が多い町である。「加賀友禅」「金箔工芸品」「九谷焼」などの伝統工芸が今でも脈々と受け継がれている。一方、新鮮で豊富な日本海の魚介類や山の幸を生かした食べ物の美味しさは格別で、茶道とともに歩んできた和菓子類の多さと質の高さは、全国的にもトップレベルを誇っている。

紅葉の兼六園

金 沢
伝統と文化の町

城下町金沢の誕生

都市としての金沢の歴史は、16世紀半ばに加賀の国に勢力を伸ばした本願寺が、信仰の中心となる道場、金沢御堂を設置したことから始まる。もともと加賀の国は守護・富樫氏の支配化にあった。しかし蓮如らの布教によって広まっていった一向宗の宗徒らが団結し、やがて一大勢力となって富樫氏を滅ぼす。こうして加賀に「百姓の持ちたる国」とも呼ばれる、一向宗徒による国が生まれた。しかし、16世紀後半になると、金沢御堂は織田信長配下の柴田勝家、佐久間盛政に攻め落とされる。本願寺勢力は制圧され、佐久間盛政が居城を築いた。その後本能寺の変で織田信長が倒れ、豊臣秀吉が政権を握ると、前田利家が加賀能登の大名に新たに任じられた。金沢御堂を中心とした寺内町は城下町へと変わり、ここから城下町としての金沢の歴史が始まった。

石川門

H13年再建された菱櫓

前田利家が金沢城に入城したのは、1583年(天正11)。以後、廃藩置県の1871年(明治4)までの約290年間、前田家は金沢を居城とし、政治・経済・文化の拠点としてその発展に努めた。初代藩主利家は秀吉の政権下で実力を認められ、加賀、能登、越中の領地を上手く治めた。家督を継いだ2代藩主利長も、徳川家康に屈しながらも加賀百万石を守りとおした。
町の整備が大々的に行われたのは、3代藩主利常の時代で、1616年(元和2)城下に散在していた寺院のうち一向宗以外の寺を、町の外側の3カ所に集め、外部から町を守る防衛線とした。利常は計画的に武士と町民の居住区を分ける「町割り」を行っている。城下には上級武士の屋敷が、中級武士の侍屋敷とともに、城を取り巻くように配置されている。

加賀百万石の歴史


1631年(寛永8)、「寛永の大火」により金沢は大きな被害を受けた。町を復興するため、利常は金沢城の補修を行うとともに、辰巳用水の開削にも着手。これを皮切りにいくつもの用水を造った。しかしこうした動きが幕府において謀反のうわさを生むこととなり、利常は子光高をともなって江戸まで赴き、老中に弁明、何とか大事に至らずに済んだ。

3代利常を継いで金沢を大きく花開かせたのが5代綱紀だ。将軍家と縁戚関係も深く、幕府との関係が良好であった綱紀は利常の始めた農業政策を完成させ、軍制や行政組織などの諸制度を次々整えてゆく。一方、産業の振興にも力を注ぎ都から名工を招くなどして各種の工業・美術工芸の発展に努めた。兼六園がかたち造られていったのもこの時代で、12代斉広のとき曲水を取り入れた回遊式大庭園が造られ13代斉泰の時代に、現在にほぼ近いかたちが完成した。

都市としての江戸時代の金沢の規模は、1857年(安政4)町方人口が5.8万人強で、武士を加えると10万人を超える人々が住んでいたと考えられる。これは江戸・大阪・京都に次ぐ第4番目の規模だった。町には賑やかに人が集い、中心街の尾張町に程近い浅野川大橋付近では、見世物や芝居などが行われ、町民たちの遊興の場となっていた。また犀川べりにも同じような盛り場があり、これが現在のひがし、にし茶屋街にあたる。

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