金沢望郷歌
1989年(平成元)
文芸春秋・刊

内灘夫人
1978年(昭和53)
角川書店・刊

ステッセルのピアノ
1993年(平成5)
文芸春秋・刊

浅野川暮色
1978年(昭和53)
文芸春秋・刊

滞在したホテルの直ぐそばで、時々覗いて見た。当時の旧式電話機は記念としてそのまま使用中だった。

金沢と「五木寛之」

金沢にゆかりの作家は数多いが、ここに住んで新人として文壇に登場して、現役の人気作家というと、五木寛之さんが唯一の存在だ。初期の多くの作品は、この地で書かれ、この街を舞台に描かれている。金沢出身の文豪・泉鏡花と並ぶ多さだろう。五木さんが住んでいた昭和40年前後には、まだ市内電車も走っていた。小立野あたりは、彼が幼少時代を過ごした外地(朝鮮半島)や大学以降の大都会に比べて、暖かさと懐かしさがただよい、それでいて洗練された香りのある不思議な街だったようだ。「風にふかれて」に「住んでみたら、意外に面白い所で、気に入ってしまった、というのが本音である」と書かれている。五木夫妻が金沢暮らしを始めた小立野のアパートが、40年余りたった今も奇跡的に残っている。東山荘である。すぐ近くにあった刑務所や周囲にめぐらされていた高い塀「小立野刑務所裏」はとっくになくなった。金沢美術工芸大学がここに移ってもう多数の卒業生が巣立った。五木さんがいたころ、金沢美大は今の歴史博物館、あの赤レンガの建物だった。(「ステッセルのピアノ」など)
五木さんが書かれているように、外国の街は長い歴史を経て昔のままの町並みが変わらず、例えばドストエフスキーの作品を読んで、当時の景色をサンクト・ペテルブルグの街に見ることができる。ところが日本の都市はどんどん姿が変わり、小説に描かれた街はなくなってゆく。その点、金沢の街は、まだけっこう古い建物が残り、五木作品を読んで文学散歩が楽しめるようだ。
「浅野川暮色」の主計町界隈や「朱鷺の墓」のひがし茶屋街や卯辰山、「恋歌」の広坂通りや「聖者が街へやってきた」の本多町通り・・・。尤もその中や「内灘夫人」に描かれた内灘海岸にあったトーチカのような弾薬庫は姿を消した。「金沢望郷歌」「風花のひと」の香林坊は変わったが、変わりかたを較べる楽しみもあり、尾山町界隈には作品に描かれた風情もただよっている。風景だけでなく、金沢の人達、例えば俳画家小松砂丘さんや水引細工の津田梅さんらも書かれている。"風に吹かれて旅する作家"五木寛之にとって、心ひかれる街金沢は、時々立ち寄りほっとする港と言えるだろう。

別項で書いているが、私が初めて金沢の地を踏んだ頃、住んでいた社宅の近くに作家・五木寛之が住んでいることを噂に聞いていた。その頃は仕事にかまけて全く無頓着でいたが、その後彼が文学の世界で売れ出すと途端に関心が湧いてきた。作品を少し読んでゆくと新人時代、初期の作品は金沢で書かれ、この地を舞台にしたものが多いことが分かった。40余年ぶりに暫くの間金沢に滞在したので、彼について纏めてみた。

五木寛之略歴(2005.10北国新聞社刊、「五木寛之の新金沢小景」から抜粋)
1932年福岡県に生まれる。新人作家時代金沢で過ごし、1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞を受賞。代表作「戒厳令の夜」「風の王国」などのほか、「朱鷺の墓」「風花のひと」「浅野川暮色」「金沢望郷歌」「ステッセルのピアノ」など、金沢を舞台にした作品も多数執筆。1981年より休筆、京都・龍谷大学において仏教史を学ぶが、1985年より執筆を再開し、現在、直木賞、泉鏡花文学賞、吉川英治文学賞その他多くの選考委員をつとめる。2001年には金沢を舞台にした映画「大河の一滴」が公開され、またニューヨークで刊行された英文版「TARIKI」がブック・オブ・ザ・イヤー(スピリチュアル部門)に選ばれた。
以下追記
2007.1現在、インド、朝鮮半島、中国、ブータン、アメリカなどへ「仏教への旅」を続け、NHKで放映中。
 

1967年(昭和42)刊、直木賞受賞作で、他に短編4作品が収められている。そのうちの「天使の墓場」は白山山中に落ちた米軍ジエット機(ブラックエンジェル)の物語。

香林坊、喫茶店「ローレンス」

五木作品に見る金沢の風景と風情

前出「五木寛之の新金沢小景」から抜粋
青文字は作品名

彼が入居していたアパート(東山荘)、40年以上経った現在でも残っている。

私は、40余年前にこの近くに住んでおり、今回当時の社宅跡を訪ねてみたが変化が激しく探せなかった。しかし、偶然にもこの建物に巡り合い、五木さんの「東山荘」は奇跡的に残っていた、と妙に感激した。

五木寛之の金沢での生活 以下エッセイ、日記などから纏めた。青文字がエッセイ、日記部分

1958年(昭和33)に早稲田大学を除籍されてからほぼ7年間、五木寛之は業界紙の編集長、コマーシャルソングの作詞、テレビドラマの台本執筆などいろんな職業を遍歴した。しかし、20代後半からのこの様な生活に心身ともに疲れてきた。
「私は20代のほとんどを東京で過ごした。九州から上京した27年(1952)にメーデ事件があり、早大事件があった。大学を途中で横へ出てからの歳月は目まぐるしい日々の連続だった。父親が死に、弟と妹がやがて上京してきた。私が東京を離れる気になったのは、ひとつは精神的肉体的に疲れ果てていたためかも知れない。私はその当時、マスコミの中でまず何とか食っていける立場にいた。それなりに売れていたと言っても嘘ではない。だが、肺とは別なところにポッカリ暗い大きな穴があいていて、そこから冷たい風が絶えず吹いてくるのを感じていた。そんな状態を何といえばいいだろう。一種の無気力状態とでも、また放心状態とでもいうような気分が続き、何もかも、生活のすべてがわずらわしく、うとましく思われたのである。私は病気を理由に、当時関係していた仕事のぜんぶから身を引き、金沢へ移住することに決めた。それは、ある意味では早すぎる退場であり、理由の無い脱走のようなものだった。金沢でさし当りどうするという当てはなかったが、最低の収入の当てだけはあった。最低といっても、文字通りの最低である。共稼ぎという安心感もあった。煙草も酒もやめ、小遣いも使わず一日二食で暮らしていけば何とかやっていけると考えたのである。

五木寛之は1965年(昭和40)4月、大学時代の友人、玲子さんと結婚。6月訪ソ、東欧を経て帰国、金沢へ転居している。「さらばモスクワ愚連隊」執筆、前述のようにこの作品で翌年1966年(昭和41)小説現代新人賞を受賞。
1967年(昭和42)「蒼ざめた馬を見よ、青年は荒野をめざす」で直木賞受賞、華々しく文壇へデビューした。
「・・・私はその刑務所の真裏のアパートの一室で、金沢で最初の生活をはじめることになるのである。そのアパートは、東山荘といった。2階の一番端の部屋に私たちは住んだ。私たち、というのは、私の相棒、すなわち配偶者という表現で私が雑文の中にばしば登場させる女である。私はどうゆうわけか、少年の頃からいわゆるファミリーというのが苦手なたちで、それは現在にいたるも変わらない。たとえそれが最近はやりのニュー・ファミリーと称するお友だちふう家族さえも駄目なのだ。したがって、妻だ、夫だ、亭主だ女房だというのは、その言葉でさえもうとましく、遂に表現に窮して(配偶者)という生硬な用語を使って笑われる羽目になったのである。」
その配偶者である玲子さんの父親は医師で、1939年(昭和14)社会党石川県議に初当選し、その後衆議院議員6期、金沢市長を2期務めた金沢の著名人だった。

五木寛之は1967年(昭和42)2月、第56回直木賞を受賞する。当時の状況は、日記によれば次のとおり。
「1月12日 北国新聞夕刊に芥川・直木賞候補作品発表されている。直木賞に陳舜臣民がはいっている。自分に決まらなければ、陳氏がもらうだろう。芥川賞候補には、宮原昭夫、古賀珠子と二人の早大露文科出身者がいる。夜、小立野の宇野魚店で、サワラ1本を買い、片身を刺身、片身を焼いて食う。370円也。1月23日 朝からざわついている。TBSのスタッフ4名、12時半に来宅。部屋にライトをセットしたり大変だ。友人、ジャーナリスト各氏から電話しきり。6時半、(ローレンス)へ行く。TBS、カメラをすえ、インタビュー。のち、選考の結果を電話でうける所をとるという。7時10分、TELあり小林氏。少し待ってもらい、7時15分、井上氏よりTELで「受賞おめでとう」。豊田、杉村、小林氏らも出る。カメラが回っている。客がシャンパンをぬいた。」


また、この時のことをローレンスのママも次のように語っている。
「ある日の夕方、「ローレンス」の店内に、突然テレビ局の数人の男たちが撮影の機材を持ち込んできた。主人が驚いて訳を訊くと、今夜、五木さんも候補になっている直木賞の発表があるのだという。そうこうしているうちに、当の五木さんも、あわてて顔を見せた。「ここで書いた作品ですから、もしお邪魔でなかったら、このお店の電話で結果を知りたいと思いまして・・・」。そんな名誉なことはない、と主人はそのまま店を飛び出し、近所の酒屋へシャンパンを買いに走った。7時が近づいていた。やがてレジのそばの電話が鳴った。主人はまだ酒屋から戻ってこない。TVのカメラが回り始めた。店のママが電話機をとり、五木さんと代わった。「いかがでしたか」と、電話を終えた五木さんに、ママは尋ねた。「ありがとうございます。お蔭様で」と、新直木賞作家はママへ深く頭をさげた。4,5人いた店の客から大きな拍手が湧きあがった。そのとき主人がドアを押して、シャンパンを抱えて入ってきた。勢いよく飛んだシャンパンのキルク栓は、カーテンの上に引っ掛かったまま、ついこのあいだまで残っていたという。」

この時の選考委員

海音寺潮五郎、川口松太郎、源氏鶏太、今日出海、柴田錬三郎、中山義秀、松本清張、水上勉、村上元三

五木寛之の主な作品 (金沢に関係するもの)

朱鷺の墓 1969年〜78年(昭和44〜53) 新潮社・刊
全4巻の大作長編小説。時代は日露戦争の頃。金沢に始まり、海を越えてロシア、ヨーロッパに展開する物語。明治38年、日本に送られて来たロシア人捕虜イワーノフと巡り会った金沢の若い芸妓・染乃。二人は次第に愛し合うようになる。やがて捕虜の身を解かれて帰国するイワーノフ少尉は、来年のクリスマスに迎えに来る、必ず結婚しようと誓い、去っていった・・・。10年を費やして執筆された大作は、あの「風とともに去りぬ」にも例えられ、テレビドラマにもなった。

大河の一滴 1998年(平成10) 
幻冬舎・刊
「私はこれまでに二度、自殺を考えたことがある・・・。」この書き出しで始まる本書は話題を呼び、ベストセラーになった。人生論と言えるだろう。金沢に関した本でもないが、金沢からスタートした五木文学の結晶であり、金沢を舞台に映画化され、大きな反響を呼んだ。

百寺巡礼 2003年(平成15) 
講談社・刊
名刹や仏像をめぐる旅「百寺巡礼」は新たな巡礼の旅ブームに火をつけた。北陸編では、金沢の大乗寺を始め、能登の名刹・妙成寺や阿岸本願寺、加賀の那谷寺と、福井・富山の寺院を訪ねている。並行してガイド版も出版。テレビ番組も制作された。 

他に次の本がある
風に吹かれて1968年(昭和43)
恋歌1968,年(昭和43)
風花のひと1979年(昭和54)
戒厳令の夜1976,年(昭和51)
燃える秋1978年(昭和53)
幻の女1968年(昭和43)
涙の河をふり返れ1970年(昭和45)
こがね虫たちの夜1970年(昭和45)

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