軽井沢と文人
古くより避暑地として訪れる人々を魅了してきた軽井沢。
豊かな自然の中で、ゆったりと時が移ろいゆく、独特の雰囲気は今も昔も変わらない。明治、大正、昭和と多くの文学者に愛されたのも、この地の大きな特徴である。いにしえの文人たちを惹きつけた、軽井沢の自然が持つ普遍的魅力とは、いったいなんだろうか。
軽井沢に文人が集まった理由の一つに、人のつながりがあったことは確かですが、その意味でキーパーソンになったのが、室生犀星です。若い文学者たちに軽井沢を紹介し、また自らの別荘を作家たちの集いの場として提供していた彼は"軽井沢の主"とさえ呼ばれておりました。犀星の自伝的小説「杏っ子」の中では、旧軽井沢のメインストリートを始め、矢ケ崎川周辺などが描かれております。そして主人公の杏子がたびたび足を運んだのが「雲場池」でした。この池は白鳥が飛来してくることから「スワンレーク」と呼ばれておりました。現在でもこの池の自然は素晴らしく、軽井沢でも屈指の散歩コースです。一周20分ほどの散策路を歩きますと、カラマツ、シラカバ、モミなどの深い緑が水面を囲み、四季折々の風情を醸し出しております。また、軽井沢で最古の「万平ホテル」の裏側にある「幸福の谷」も人気コースです。宣教師たちがその美しさに感激して「ハッピーバレー」と名づけたこの場所は、苔むした石畳が続く緑の小径です。万平ホテルのカフェで一休み、そしてハッピーバレーを歩くのが時代を超えた軽井沢散歩の定番コースとなっております。
ハッピーバレー「幸福の谷」
川端康成も山荘をかまえておりました。幸福の谷のその山荘で堀辰雄が代表作「風立ちぬ」の最終章「死のかげの谷」を書き上げたのは有名な話ですね。後の堀辰雄のところで書きますが、当時彼は追分の油屋旅館に滞在しておりましたが、たまたま川端の別荘に宿泊した時に、その油屋旅館が焼失し、偶然にも難を逃れたという逸話もあります。
軽井沢高原文庫
堀辰雄、室生犀星、立原道造など軽井沢にゆかりのある文学者の資料を展示。直筆原稿や書簡、愛蔵品など約2万点の資料を所蔵しており、さまざまな企画展を年に数回行っています。敷地内には旧軽井沢にあった堀辰雄の山荘や、有島武郎の別荘、野上弥生子の書斎兼茶室なども移築・公開しており、当時の格調高い軽井沢文化の一端にふれることができます。
堀辰雄の山荘
野上弥生子の書斎兼茶室
有島武郎の別荘
室生犀星の別荘
軽井沢と作家
室生犀星
1889年(明治22)〜1962年(昭和37)
大正9年の夏、初めて軽井沢に来た室生は「つるや」旅館に宿泊。以降毎年夏には滞在している。大正15年以降は貸し別荘、昭和6年以降は新築した別荘で過すが、昭和19年から24年までは、疎開生活を送った。軽井沢を舞台にした小説は数多く「杏っ子」「聖少女」「木浅日」、随筆「軽井沢の雨」、詩「鶴」「旅人」などがある。
有島武郎
1878年(明治11)〜1923年(大正12)
有島が始めて軽井沢を訪れたのは、妻の安子の危篤中、三笠の別荘「浄月庵」で父母に預けていた3人の幼女に会いに行った大正5年のこと。その後安子の死後約2ケ月間ほど滞在した。以降はほぼ毎夏足を運び、夏期大学で2度ほど講演も行っている。大正12年5月9日、浄月庵にて愛人と心中したのは有名。作品では短編「小さき影」で大正7年夏の軽井沢での体験を描いている。
堀 辰雄
1904年(明治37年)〜1953年(昭和28)
堀が室生に連れられて初めて軽井沢の地を踏んだのは大正12年、まだ学生の頃であった。その後は毎年のように訪れ、昭和13年の結婚直後旧軽井沢に新居を構えた。16年にはアメリカ人スミス氏より旧軽井沢・釜の沢の山荘を川端康成の仲介により購入、半生の殆どを軽井沢で過した。作品においても軽井沢での体験が色濃く「ルウベンスの偽画」「美しい村」「風立ちぬ」「菜穂子」「大和路・信濃路」などを残している。
立原道造
1914年(大正3)〜1939年(昭和14)
堀辰雄・室生犀星に師事した立原は、昭和9年7月から追分にひと月ほど滞在した。そして関鮎子と知り合ったのも軽井沢であった。堀ら四季派の人々と交流の深かった彼は、以降毎年軽井沢に通い、主に追分の油屋旅館に滞在しながら次々と詩作を発表するが、28歳8ケ月の若さで病没。没後には堀により詩集「優しき歌」が刊行された。初めての軽井沢滞在から生まれた「村ぐらし」をはじめ「夏の旅」「のちのおもひに」「鮎の歌」「萱草に寄す」「暁と夕の詩」など、軽井沢に関する作品が多い。

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堀 辰雄
雲場池(スワンレーク)